自己観察とは起こる事だ
受動的凝視・自己観察とは何だろうか
それは受動的というのだから能動的ではない、
能動的とは、この主体が行うことだから
受動的とは、この主体が行うことや、することではなくて
起こる事、やってくることであり、受け身にしているときに彼岸から為されることである。
では見る事、自己観察とは、その受動的な凝視であるのなら
この自己観察には
この分離している私というものが関わっていないことは明白だろう。
記憶である自己が関わっている(行う)自己観察とは、思考の記憶であるところの観察者による観察であり
観察されている対象としての自己は、観察している主体の自己であり
同じ思考の記憶であるものが主体と客体に分離偽装されているだけだ、
思考の記憶であるものが観察者と観察されるものに自らを分割しているだけだ
恐怖や不安であり、将来や目的や動機を持っているのはこの自己であり、そしてそれを観察している自己でもあるが
これが行う観察とは、正しくは観察でもなく、受動的凝視ではない、それらには見ることは出来ないのだ。
この主体と客体の言う分離を生み出している思考である観察している自己も、観察されている自己も果たして
観察する事の出来る目があるのだろうか
目が開いているのだろうか、目を持っているのであろうか?
観察している私も、観察されている私も共に受動的凝視・自己観察などはしていないし、出来ない事は分かる
それは目がないのだから、当然である。
勿論、目がないものには自己観察は出来ないし見る事も出来ない
自分を非難している、自分を評価している、自分に等級を付け、自分に善悪を良い、自分に先入観を抱いている、自分を
憎んでいる、自分を愛していない、そして自分を判断しているのは記憶であって(記憶の条件反応であって)
未知なる私ではない
未知なる私であるなら判断なく見ているだろう、愛を持って見ている事だろう。
果たして未知である本当のわたしという「目」であるものなら
非難したり、評価したり、善悪をいったり、判断したりは決してしていないだろう。
そしてその未知なる私であるなら
感情と思考を用いたり、認識作用や知覚作用のなかで知識を使用したり、言葉を媒体にはしないだろうし、
「評価や判断」や同一化や逃避はしないだろう
ではもし自己観察し、受動的凝視をしているのなら
そこでは一体何が観察されるというのだろうか、何を見るのだろうか、何が映し出されているのであろうか
その本当の自己観察では何が顕わになっているのだろうか、何が見えるのか
受動的凝視の中では何が見えるのか
それはこの質問をしている本人である久保栄治は思考の範疇内のことしか理解できないので、
思考である言葉や知識や概念を超えている、その未知なる状態は思考や言葉や概念や知識では表現されないので
理解出来ないであろう。
そういうことなのであるけど、これを言語や言葉を使っている、ぎりぎりの否定的接近の言い方をした場合には
その未知なるものとは、
その未知なるものの「目」の中では対象というものは見えていないのではないだろうか、
そのもそも対象がないのではないだろうか
その凝視の中では主体と客体の区別が消滅しているのではないだろうか、
「判断の停止」ということのなかでは、思考がなく、分離した自己もない凝視の中には
最早、私とあなたの区別はなく、分離することが出来ない本来の状態が顕現しているのではないだろうか?
それは正しい自己観察によって見えてきた、思考によって覆われていたものではないだろうか?
それは思考や時間や自己という覆いがはがされた結果見えてきたもので
見る主体と見られる客体が同じであるものだろう。
その自己観察や受動的凝視の中には勿論、マインドや思考であるもの即ち自己、自我、恐怖、不安、自他の分離は
存在していないことだろう。
だからその「目」には完全、完璧しかあり得ないのだろう、全てが美しくただ一つであるものなのだろう
自他の分離、我と汝の分離認識や、分離知覚や二元的体験とは頭脳の条件付けによって生み出されているマトリッ
クスであると言われている
受動的凝視の中では「全ては一つ」以外のものは見えないと言われている
自己観察をしていないもの、
思考の中で自己観察をしていると錯覚しているものだけが対象を見て、
それが投影している主体を自分だと思い込んでいるのだと言われている。
なので、この本物の自己観察と受動的凝視をしている「目」の中には我と汝の分離は存在していないと
そしてだからこそ、この観察とは自己と云う思考からやってくるのではなくて思考を超えた根源からやってくる
凝視とは、だからこそ受動的と言われているのだろう、
そのとき、その見ている「目」とは私と言う主体のものではなく、
それはまさしく「目」自体なのだ
だから通常の社会常識の範囲内での自己観察とは、「目」がないので自己を見ていないことであり、
見る事が出来ない状態であり、自己観察をしていると思っているだけで自己観察はしていないのだ。
それは目が塞がっている状態であり、
その目が塞がっている状態の中で、必然的に主体と客体の分離があるのだと記憶である主体は思い込み
見る者と見られるものという虚偽の分離をしてしまうのだ。
その錯覚の中で内部と外部の分割が起きているのだ
そしてその虚偽である主体こそが思考であり、その思考の記憶なのだ。
そしてその記憶の中身とは暴力であり、悲しみであり、目的であり、理念であり、理想であり、知識であり、善くなろうとし、
進歩しようとし、神に到ろうとする主体のことなのだ、そしてこの主体が神を求め、神秘体験を経験したりしているのだ
この主体のことを自我、霊魂等というのだが、実際には、それは頭脳の条件付けによって生み出されたマインドの記憶
であるものではないだろうか?
それらはまた知識であり、記憶であり、知覚であり、認識であり、体験であり、概念でもあるものだ
だから、それは「観照者という窓」の硝子にへばりついている、マインドの想念形態でもあるものではないか
その記憶である主体では見る事は出来ない、自己凝視は出来ない、自己観察は出来ない
私と言うこの分離しているマインドの記憶=人格は、見ていない、自己観察していない、凝視していないのだ
見るためには、観察するためには、凝視するためには「目」が必要だ
その「目」は、自己ではない、人格でもない、記憶でもない、思考ではない
それは、やってくることだ、それは起こることだと言われているのだ
また、それを別の言い方をすればそのへばりついた記憶というものが窓硝子から消滅することだ
そうすれば
そして、その出現した「目」にはもはや我も汝の分離もなく、全ては一つなるものが完全完璧として見られていることだろう
その目こそが未知なる私の目である