選択するということは出来るのか
覚者方の言うように、
私達は行為していない。
私達自我は行為に関わっておらず、行為はただ起きている
行為は自我に関わらず起きている
自我は行為に関わっていないのだ
自我とは行為していると思っている記憶なのであり
行為とは自我が為していない、大いなる意志が行為しているのである
と聖者の言われるようだとしたら
選択と言うことに関しても
同じ事が言えるのではないか
「自分が選択している」と言うことや、自分が決定しているのだということとは、まったくの思い込みであると言うことになってしまう
選択しようとしなかろうと、どのように選択しても、起こるように起こるべく結果が起こるのである、としたら
選択すると言うことは、
或る内や外の出来事が決まることのため(結果の為)にすることであり、
その選択した「行為」そのものが、ただただ私と関係なく起きていることなのだ
即ち選択の主体である「自我(エゴ)としての私」に関わらず、結果とは起きていることであるとすると
何かを選択していると思ってはいても、実は何も選択していないこととなる。
自我は選択には関わっていないことになる
選択とは行為することであるからだ。
そして、行為は自我とは関係なく起きているのだと言われる。
というのも如何なる選択に関わらず結果ということは決定されているからであると。
それは起こることであるからであると。
だから結果は選択に関わらず起こるように起こるといわれている。
これらの結果は全ては上映され、映し出されていることなのだ、原因によって
行為も、出来事も、自我も、その想いもスクリーンに投影されていることだと
そのスクリーンの映像を観察している観察者もスクリーンに投影されている一部であると
これらの「結果」とは真っ白の何も写っていないスクリーンに上映されている映像のことなのだ。
この映像こそが二元性であり、見る者と見られる者、自と他の分離である、〜になる、〜に到るという時間である。
そしてこのスクリーンというもの自体が自覚されるのは、
(若しくはスクリーンが浮かび上がってくるのは、又はスクリーンが誕生するのは、体感されるのは)
スクリーンに映し出されているこの映像である思考や感情が映し出されていないときである、停止した今である
若しくは
映像(思考)が消滅(沈黙)したときである。
見ている者と見られている者の分離とはこの映像の中身そのものであり、その映像の特徴であるから
「見る者と見られる者は一つである」こと(思考の沈黙)が実感されたとき、その分離という映像の奥から
スクリーンが誕生すると言われている。
そのときこそ、映像というものはスクリーンに上映されていたことであったということが心底から納得し悟得され
内部と外部の分離という映像が映し出されなくなることが起こると言われる。
この映像こそ行為であり、出来事であり、カルマであり、肉体であり、思考であり、感情である
又、それと同時に
この私の肉体の行為を私がしていると思い込んでいるもの
「この映像の記憶であるもの」、
即ち「自我(エゴ)としての私」もまた映像である。
そしてこの自我の反応とは、やってくるあるがままに対しての気づきというものよりも
数秒遅れて反応しているものとだ言われている
記憶からの反応そのものであるそれは、「自我(エゴ)としての私」の反応である
それは
@:やってきている思考と欲望と感情のあるがまま
に対して
Aは:@のそれらに対しての歪められた知覚と、感覚そして認識(条件付けられている記憶からの反応)
更にその知覚と認識者からの反応である「〜から逃避しようとすること」、「〜から逃げるために〜と同一化しようとすること」、「〜に対して非難することなど」「〜に巻き込まれること」などが少し遅れて、ほぼ同時に一緒に、おこっている
だから、「行為は起きていることである」と言うことのなかには
思考や欲望と、それに対する、それらから逃避したり、非難したりする自我の反応も一緒に起きていると言うことである
そういうことであるので覚者がたの言われるように
行為とは結果であるとしたら、
そのあるがままに対する記憶の反応である「自我(エゴ)としての私」の反応も同じく結果であると言うことになる
平たく言えば起きている行為も、それに対する自我の反応も、少し遅れはするもののペアになってやってきて
起こっていることであると言うことである
それこそが観察者とは観察されるものである、と言われる所以である
私ではないものが見る者・私として認識し、その私でないものが見られる者・私として認識されているのだ
それは共に思考なのではないか
認識している私も私では無く、認識されている私も私では無い
この現在の意識し、意識されている私とは結果であるにすぎず、真実の主体ではないと言うことである。
この現在の私と言う感覚や知覚は、この意識の座に起こっているやってきた単なる感覚や知覚であるに過ぎない
主体だと思い込んでいる現在の私とは、起きていることの記憶なのであり、その記憶とは行為には関係していないのに
自分こそが行為者である主体だと思っているのだ、この錯覚しているものが現在の私だ、すなわち私を詐称しているものだ
この行為していると思いこんでいる私とは、記憶でしかない「自我(エゴ)としての私」なのだ
その「自我(エゴ)としての私」という私は、起こっているものであり、スクリーン上の映像の一部であり
それを観察しているものも、その映像の一部だと言うことではないか
肉体も、その肉体に関わる出来事も、行なわれている行為も、考える思考も、色々と沸き上がる感情も、願うことの欲望も
そして
それに対して反応して、
非難したり、軽蔑したり、逃れようとしたり、恥だと言ったりする自我(条件付けられた記憶)や
逃げるために同一化することも
その記憶からの反応である思考や感情や欲望や思い出も
両方とも共に、結果であり、起きていることであり、スクリーン上の映像であるとしたら
この「自我(エゴ)としての私」とは全くの起こっていることであり映像の一部だとしたら
そして現在の知覚や、感覚、想念、欲望、思う事、考えることも
そして行為も、肉体の状況も、回りの出来事も、状態も、事態も、内部と外部を分離して見ている事の全てが、
そして見ている私の反応も、
さらに見ていること自体も映像であり
結果であるとしたら
果たして何かをすることがあるのだろうか、何かをすることが出来るのであろうか、何かをしているのであろうか
それらを映しだしているスクリーンこそが本当の私だとしたら
映像の全ては起こっていることだとしたら
スクリーンとしては
何もすることもなく、
何もしておらず、
何かであることもなく
何かに成ることも、
何処に到ることもなければ、その時
「自我(エゴ)としての私」とは一体存在しているのだろうか
この私は何処にも至ることもなく
何も選択することもない、それは結果であり、映像であるから
ということであるからには
そのことを現在思念しているのは、結果自身ではないか
果たして「自我(エゴ)としての私」などと言うものが何処にいるのであろうか
選択に関しては選択していると思い込むようにプログラムされているだけで
その選択しているという錯覚が起こるように、その錯覚が起きていることであり
「自我(エゴ)としての私」の選択は実は全くの思い込みであり、選択はしていないのであるとしたら
選択していると思うように思い込みが起きていると言うことである
同じように
「自我(エゴ)としての私」の進化も
私が良くなることも、愛情深くなることも、意識の拡大も
段階的発展も悟りへの階梯も
覚醒のレベルも
起きていることであり、結果であるに過ぎない。
その〜になる自分、なろうとしている自分は結果に過ぎないのではないか
「自我(エゴ)としての私」である自己とはやってきた映像の記憶であり、起きている結果そのものであるとしたら
それは本当の主体でもなく、主体と思い込むように思わされているプログラムに過ぎないことになる。
その起きている主体・プログラムは映像であり結果である
だからこそ、その自分ではない「結果である私」をあるがままに受け入れ愛さなければならないのだ
何故ならば
この全てを観照している私にとっては
その私ではない私も、全てが私であるからだ
その私ではない私を愛することが、真の私である愛であるからだ
と言われている
ラマナ・マハリシはいう
誰も何も為してはいない
何も起きてはいない
と
そこの
誰も為していない、「今」ここには、私とあなたという区別や分離はなく
思考や対象もなく
何も起きておらず、その「今」ここには見る者と見られるものという二元の対立はなく
見る者もみられるものもなく
「在る」のみがただ一つなるものとして「在る」ことであろう
そして
だからこそ
私達は「今」ここに留まるべきなのである
あるがままをあるがままに見ること、「自我(エゴ)としての私」の想念がどこから生じているかの
発見こそが、『「今」ここあるがまま』が生まれるワークである