夢の中で、夢から覚めた夢を見ていること

(目が覚めていないのに自分は覚醒したという夢を見ていること
より深い夢へと私たちが誘惑されること
この現実に気がつくこと)

私たちの回りに多くのそのような
「夢から醒めたという夢を見ている」方々を、自分を含めて観察することが先日、在る機会で出来た

覚醒した夢を見ることは私達をより深い迷いへと誘うのではないだろうか

永遠のパーソナリティーとしての注意力も、気づきも、その真の愛も体験していない私たちにとって
外部からやってくる、
その「目覚めた」という思いこみや錯覚は更なる深い夢へと私たちを導くのではないだろうか

それこそ真の目覚めとは反対の方向に、へである


自分や他人の前世が見えることは目覚めだろうか

相手の運命が分かることが永遠のパーソナリティーの愛だろうか、その目覚めだろうか

未来が、将来が見えることが覚者の観照者の覚醒だろうか

空中や、水の上を歩けることが目覚めた者の証であろうか、またそれをするだろうか

その人の死亡日時を読めることが覚醒した者の愛だろうか、それは目覚めたもののすることだろうか

自我の願望を叶えてやり、その人が更なる自我の虜になることを、
真我はするだろうか、永遠のパーソナリティー・観照者はするだろうか

その人の肉体を健康にすることだけに注意が向いてしまうように導き、
その人を健康にする、その超能力を持っていることが観照者の印だろうか

自分を含めて、この自分に関することにのみに、即ち、
「個人の悟り」に注意を向けさせることを真我は行うだろうか
本当は既に悟っており、神は内側ではないだろうか

自分の覚醒にのみ関わることを、覚醒した者は関心を持つだろうか、
観照者・永遠のパーソナリティーはこの私達がそのような欲望にとらわれているときに、
悟りという覚醒をこの私に果たして与えるだろうか
自我の究極の欲望である「悟り」は、悟りを求めることによっては、与えられず
人々のためにこの悟りすらも断念して、人々の救済へと向かうとき
逆に、自ずと、内なる真我から与えられることではないのだろうか

真我はクンダリーニやチャクラを、この私達の欲望である、自我の欲望に応えて開花させるだろうか

クンダリーニやチャクラは自我の開花に従って自然と内なる真我から与えられるのではないだろうか

それを人為的に自我の開花を待たずして与えることは真我は行わないとしたら……。

そのクンダリーニやチャクラが自我の開花に合わすことなく行われたら、…。
どのような悲惨な状況を招くのかは、分かっているのに…、

それは更なる深い眠りの中での、夢の中での自我の暴走へと招くことは必然であると思われる、
それは深い深い更なる夢へと私たちを導く事だ

そのような深い夢へと導かれていく人々を、私を含めて私は自分の回りに多く見つけることが出来る

覚者はこのような全ての能力を持っているにも関わらず
自我の終焉を実現していない弟子にはこれらを決して与えることはしない

私達はこの深い夢から醒めなければならない、
それには、まず始めに内なる永遠のパーソナリティーが目覚めることが先決だ

その為には、自分は夢から目が覚めたと錯覚してはならない
悟ったと錯覚してはいけない

私達は眠っていることを、
そして「夢を見ている」この現実を深く直視し、認識しなければならない

眠ったまま幽界や霊界を巡り、そしてまたこの物質界に戻されるという
このサイクル・三界輪廻は夢のサイクルであり、カラクリだと上江洲義秀先生は力説される

上江洲義秀先生においては幼少の時から絶えず、
内側からの真我が「目を覚ませよ」と叫び続けたという

であるので、夢から醒めていないのに、私たちは、
そのような真の目覚めではない状態を与えられ、体験し、知覚してそれを目覚めと錯覚してはいけない

私達はそのような与えられた「夢から醒めた夢」や、
強力なパワー・奇跡の力を夢から醒めたことと同一視してはいけない、

そのパワーと奇跡を引き起こす力は私達を更なる夢へと引きずり込む誘惑である


「私達は愛そのものである」

この一点こそ私達を真の目覚めへと導く、合い言葉ではないだろうか
自分ではないものを排除し、否定しきったとき、そこに在るもの…
それはやってくると言われている

ではその覚醒は何処からやって来るのか

覚者達が口を揃えて云われるように
それは、内側から、
真の私自身から、
真の純粋主体性である観照者から

そして真我からその目覚めはやってくる

上江洲義秀先生は云う
「私達は既に目覚めている」と

だからこそ
目覚めている内なる真我に注意を向けなさいと
未知なる真の私に気づきなさいと

その真我に、内なる絶対者に、私自身に、真の私である、この私のもとにきなさい、と


であるので
この真我覚醒の中間に位置している「夢から醒めたという」錯覚を排除し

中途半端な奇跡やパワーという現象に惑わされることなく

自我の終焉を目指さなければならない


の偽の主体とは、
この私、
これこそ二元性の私、
自と他を分離した存在と錯覚している私、
知覚し、認識可能な私
この現在の私
この偽の個人の私
これこそ終焉すべきわたしである
これらの私は私ではない
これらの私は外部からやってくる者である


この方向こそ
私が存在していない
私が存在していなかった
という永遠のパーソナリティー、観照者そして真我への道程である

これは
「夢から醒めているという夢を見る」という

危険なる更なる深き迷妄から醒めることに近づくことではないだろうか





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