観照者とは何だろうか

私とは何だろうか
また、これを尋ねているものは誰だろうか
この意識、このいまの現在意識とはなにか


これを概念化することなく
理論化することなく
本当に
見てみたい
言語化することなく
見てみたい

観照者は「私」ではない

この現在意識を成立させてはいるが
わ・た・しという認識できる対象ではない

認識の対象は認識するものだと思う
正しく言うと
認識の対象が主体を生み出した
マインドが私を生み出した


観照者は主体ではない


主体を成立させているものだ
意識と無意識を支えている

観点を変えれば
それは
磨かれた球体のよう、
「鏡」そのもののよう
際限なく拡がる「鏡」のようだ

観照者とは鏡だとおもう

それは
私を映し出す

私とは
認識されるものであり
認識する主体であり
それは、暴力、攻撃性、愛の欠如、いらいら、苦悩、欲望
等々

いくら表面を着飾り、自分で愛のあるように粉飾しても

この観照者の鏡は、真実の
あるがままの姿を暴露する

美しく着飾った花嫁姿の奥に血に飢えた鬼がいる
それが、私だ、主体だ

そして分離性だ、
それは条件付けで与えられているものなのだ

始めから頭脳に深く条件付けとして、与えられてきたものなのだ

「私」とは最初から条件付けの結果、その分離性の意識が悲惨と悲しみと暴力を、内面に深く刻まれて、プログラムされて
うみだされたのだ

そして自動的に、自我の感覚が生み出されたのだ
それが「わたし」という主体だ
それが認識者であり、
観察者であり、
体験者であるとおもう

私とは頭脳にプログラムされた条件付けによって、必然的に生み出された、意識状態なのだ

その中身は

全くの苦しみだけだ


それを静観している者は
やはりその意識だ

それに引き替え
観照者は意識には現れない
観照者は「私」という、個人的な自分の所有する意識ではない
非個人的なものだ、際限のないものだ
それは「私」ではない
それは「私」を浮かび上がらせている

鏡だ

それは意識の対象ではない
それは認識の対象ではない
それは頭脳の産物ではない
それは主体ではない

その鏡が

意識を成立させている
認識を成立させている
頭脳を支えている
主体を成立させている

鏡こそ、観照者であり
「・・・・・」であると思う

そこは
言葉は入れない
意識は入れない
認識は入れない
頭脳は入れない
マインドは入れない
「私」は入れない
分離は入れない
二元性は入れない

主体は入れない
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