凝視している主体がいないとき、凝視がある


先日、私の一人の友人に対して、私が自我の話と真の私の働きについての考えを述べていたところ、そばに座っていた、別の友人から

「久保さん、あなたが話しているその自我と真の私の区別は、誰がしているのしょうか?

その真我と自我(エゴ)というように、二つに分けている者こそがマインドである自我ではないのでしょうか!

真の私にとっては、なにも分離しておらず、真の私も自我(エゴ)も分離していないのです!

全てがただ一つなのです。真の私も自我も一つの中で何も分離していないのです

従って、あなたが話している自我観察は観察する対象があると信じているマインドの自我が行っているのであり、

真の私にとっては、“認識の対象となるような自我”を認識する私も、その認識される対象の自我もいないのです。

全ては真我なのです。

自我を対象として観察している事こそが自我の働きです。

あなたのその働きは自我であり、今あなたは対象を持っている自我から話しています。

久保さん、自分を貶めてはいけません

あなたは、私であり、私と久保さんは一つなのであり、そのような真の私と自我を分割している認識から今すぐ離れなさい!」

と概略すれば、そのような主旨のことを話していただき、注意してくださった。

その友人のように、既に真の私である非対象の視点が生じている立場からすれば、勿論それが正しいが、

自我である私という「本来存在していない記憶の塊」であるこの現況の私から見た、分類し、記述するマインドの働きも、

マインドがマインドの嘘を知る上では多少は役に立つのではないだろうか。

その友人から得た情報ではあるが

真の私に繋がり始めた友人の状態と、マインドである私の状態を比較してみた(比較することがマインでの働きではあるが)

ただし、これはそのようなマインド側から見た視点であることを了解された上で見てください


マインドの働きの特徴

真の私の働きが現れ始めた特徴 
   
身体の感覚・知覚 空間そのものの、空間それ自体の感覚
考える 思考していない、考えない、考えが起きない、考えがない
自我観察をしている場合の「観察している主体としての自己」と
観察されている客体の自己が別々にあると感じられている状態
、見られるものを見るものである認識者が認識している状態
分離している状態
自我観察している観察者は観察されている自我(エゴ)自己と
全く一つであると実感している状態
頭で理解し、認識し、分かる状態
即ち理解に時間がかかっている状態
考えて分かるのではなく、本質と状態の全てを直ぐ理解してしまう
瞬時に分かってしまうこと
部分的な理解 全体的理解、全てを一遍に同時に理解してしまう
肉体の感覚、知覚。自分の肉体を知覚し、肉体の感覚が
有る状態
肉体感覚が希薄になり、何処から何処までが自分の境界かが
ハッキリしなくなる。モノや他人と自分の区別が出来にくい知覚状態
自己意識・自己関心・私の所有意識の喪失
思考が働いている 思考が極度に静まっている。自分がしている沈黙ではない沈黙
思考が静まりかえり何処にも行かない動かない静寂
問題がある 何も問題はない
自分が考えている 考えが起こっている、流れている思考、来ては去る感情や欲望に囚われない
私は思考していないといえる状態
自分が行為している 行為が起きている
私は行為していない、私とは「人格である結果の私」であり投影だとの理解
私が生きている 生きてることが起きている、生きている私はいない、私やあなたはいない。神が生きている
私・個人・人格という実感がある 私・個人・人格はまったくの虚構であり、そのような私はいない
全体であるただ一つなるもののみがあるという実感
個人の感覚の消失
時間に支配されている状態、過去を思ったり、未来を案じた
りすること
時間感覚が薄らぎ、今此処に安住している実感があり
絶対なる大安心にしっかりと抱かれている感覚があり
過去を思う事もなく、未来を心配することから解き放たれている
平安・平和・安らぎの境位
全託しようと決意し、努力している 全託している状態
神に到ろうとしている→なにもしない→なにもしていない あるがままがあるがままであるという実感
我は神であると思念している→我は神なりの感じがある 「われはそれなり」。若しくは「我は在る」の実感
「我は神なり」というのはマインドであって、真我はマインドでは
なく、従って自己の意識はなく、全体意識のみである、それが「われはそれ」である。
私は悟ったという実感 マインドが悟ったという認識をしているのであり、悟りの中には「私が
悟った」という自覚や認識はない、自覚や認識そのものがマインドであるから
恐怖感・不安感・焦燥感 → これを感じて、その反対の
安心しようとする、安定を得ようとする
悦び・歓喜・法悦・平和・安堵感・完全なるくつろぎ感
わたしという感覚 個人も他人もが何処にもいない感覚、全体の感覚、拡がった感覚
思考を見ていない同一化状態 → 思考が思考を見ている状態 気づきの状態の中には思考がない、気づきのみがある
準備する、対策を講じる、先を読む 全ては起きており、実際は何事も起きていない。従って準備もなく
対策を講じることもなく、将来を考える思考もない
質問や疑問がある 質問や疑問はマインドから出ているので、マインドがないとき即時の
理解があり質問や疑問はない
神を求めている、求めて実現しようとする 既に今此処に在り、出発もなく終点もなく、何も求めず、既に実現している
これからどうしたらいいのかと悩む
どうあるべきかと悩む
将来がないので悩みから解放されている
悩む自分がいないので悩むことがない
愛しよう、与えようと努力する 愛しか感じられない、無限の愛の豊かさを感じている、与えることしかない
生まれた、死んだと実感する 肉体や身体との同一化から解放されているので、生まれることも、
死ぬことも全く感じられない、
自由意志が有る→自由意志はなく全てが起きている 自由のみがある、全ては自由意志という実感
次元があり、階層があり、階級があり、色んな意識界がある 階層もなく、次元もなく、ステイトもない、三千世界もない
実相界が見えない→実相界を体験し、現象界と実相界の
違いが認識できる
現象界も実相界もなく、現象界がそのまま実相界である
認識の主体が有る マインドとは認識であり、認識の主体もなく、認識の対象も無く、認識もない
宇宙の救世主、宇宙の創造者、宇宙の支配者 宇宙は吾が内にあり、宇宙は創造されていない、従って消滅もない
克服し、昇華し、良くなろう、進化しようとする 克服もなく、昇華もなく、良くなることもなく、進化もなく、今此処に既に在る
あるがままがあるがままにある、完全完璧としてある
成就しようとする、気づきに到ろうとする
既に気づきがある、既に到っている、既にただ一つなるものである
私が生まれ変わると思っている
私は生まれていないのだから死ぬこともなく生まれ変わらない
自分が行為し、考えている、想い、願い、欲望している
と思っている
個人はいない、行為も起きており、欲望も、願いも、思考も、起きており、それを
認識している者もいない
玉響(たまゆら)個人としての魂 真の魂は客体化されないので、対象と把握され、超感覚で認識できるものは
「私・真の魂」ではない、魂は主体であり、対象として客体化された魂は魂で
はない
玉響は真の魂ではない、何故なら真の魂は「今此処に在り」対象ではなく
主体であるから、視覚に捉えられない
主体と客体を認識している私とは「マインド・思考」
私の中には主体と客体という分離がない、従って思考がない
思考による思考の凝視→思考の隙間の発見
思考そのものの消滅
対象を見ている私、対象を認識している私 私とは対象を認識していないものである、私は非対象であり、わたしが
それである
対象を見ている私は、対象を生み出しているマインドであり私ではない
真の私は対象化されないし、対象を持っていない、対象を持つものは私
ではない
言語・言葉→普遍的原言語・原言葉 非言語、非言葉・言葉に依らない瞬時の理解、即時の理解
テレパシーを超えた理解
対象としての神・認識される神 対象であり、認識されるものは客体であり、その時私は本当の主体ではない
神は絶対主体であるので、そこには対象も無く、見るものもなく、見られる対
象もない。神とは対象でもなく、客体でもない。主体と客体を超越している
分類・比較・評価・ラベル貼り・命名化・善悪の判断・選択 善悪、神と悪魔、高いと低い、等級付け、分類などはマインドの特性であり
気づきは善悪、等級・判断・選択はしない
形姿があり、在る一定の空間を占有しているもの 空間そのもので、空間自体。全てに遍満し・普遍している・形や形姿はない、
意識を超越している
成ること、到ること、実現すること、進化する、向上する、
良くなるなど時間の過程
(〜になるプロセス)が支配している
そのプロセスは既に成っているものの否定である。
既に実現していること、既に到っていることを否定することである。
その成ろうとすることは時間(マインド)であり、実現することはない

ヒエラルキー・イニシエーション・境位・段階などの概念
とその実際行われている次元、即ち分離次元
→意識界の根源のプログラムである
事実は、既に今此処に在るのであり、この左記のアプローチそのものが
真理から遠ざかっていく動きであり、虚構である
このアプローチの前提そのものが分離であり、自他の分割であり、成り行く
過程という時間の範疇内に有り、巧妙なるマインドの作りだした罠である



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