真我覚醒の後に自我(エゴ)の終焉は訪れ、そして真我実現がある



真我の目覚めの体験の後に、行うべきワークとは何か

このワークとは、何かを「思うこと」や、「考えること」、「すること」ではなくて、全身全霊で「自我(エゴ)を理解すること」、「思考を使わずに正しくマインドを見ること」であると思う、マインドである自我(エゴ)をである
と正覚者の方々は教えておられる

マインドの動きを完全に捉えること

思考の隙間を発見すること、思考が発生するその瞬間を目撃すること

私たちは見ていないこと、に完全に気づくこと
(マインドに支配されている限りは、外部や内部を見ている対象として認識してしまうこと)

私たちの五感は頭脳の条件付けの結果であり、あるがままを全く見ていないこと、を正しく見ること

あるがままとは完全であり、あるがままに見るとは、「自分は存在せず」、「あなたは私であり」、「私とは野に咲く一輪の草そのもの」であり、「あらゆるものとの分離はなく、観察者の私が内面の恐怖そのもの(この恐怖とは、マインドの自他の分離性の特徴である)である」と言うこと、
(真我の覚醒していない私にとっては、あくまで推測であるが)

分離が無く、非分離性であるとき、何処に主体と客体、見る者と見られる者の分離、グルと私、神と私の分離があるだろうか

一体、何処に自我(エゴ)が存在しているのか,何処に愛ではないものがあるのか、何処に歓喜ではないものがあるのか

何処に平安ではないものがあるのか、非二元性の目で見るとき、そこには完全完璧以外のものは存在することは出来ないであろう

であるので、どうしても真我覚醒したその非二元性の目でもって、自我(エゴ)であるマインドを正見しなければならないのだ、と教えておられる

本当は存在していないマインドの自我(エゴ)を存在していないと正しく見ることだと言われる

このことは観念や概念や思想や教えられたことでは駄目だ、

自分は存在しないと思うことや信じるでは正見することにはならない

実際に自己が自己を終局まで正しく見ることなのだ

それに、正確には真我が覚醒しないかぎり、自我の終焉を迎えるワークを完璧には行うことが出来ないのではないだろうか、

というのも、この場合の「見る」とは思考を使わずに分離しないで見ることなのであるから

但し、その中間としてマインドではあるけれど、純粋思考を使ってそのワークを行いなさい、といわれる

ではそのワークとは、以下のワークのことであると思われる

●自我(エゴ)という時間の本体に接近し、自我(エゴ)を見切ること、即ち「〜になろう」としているマインドを受動的に凝視すること

●自我(エゴ)という想念の発生する現場、その瞬間、若しくは、その思考を最初から最後まで理解すること
(この見るという理解は、二元性の目でもってマインドを見ることではない、ということは、「自分という見る者」がその対象としてマインドを見ているのではなくて、私自身がそのマインドそのものとして、自他一如の非分離性の目で見ていることである)、

●そして内部に於いて、思考の隙間を発見すること、思考が浮かび上がってくるその瞬間を見ること

●この思考の隙間の発見こそが「自我(エゴ)の正見であり」、この自我の正見が自我(エゴ)の終焉をもたらす、即ち自己は最初から存在しておらず、真の私は生まれてもいないし、死ぬこともないということを正覚することだと言われる

そしてこれこそが真我実現であるのではないだろうか、と、私にはそのように推測される


これが、いわゆる道元の言う「自己及び他己の身心脱落」のあとに、やってくる「脱落身心」であると思われる

このことは逆に言えば、真我の目覚めの段階では、まだマインドの創り出した内部世界と外部世界の分離という残滓が残っており、自分が行為しているという行為者が存在している、まだ自我(エゴ)は完全には終焉していない
これはマインドがマインドそのものを見切っていないので、過去現在未来という時間の感覚が残り、将来というマインドが創り出している時間であるところの、「〜良くなる」、「進歩する」という概念に支配されている状態に陥っていることである

そういうことであるので、
このマインドという自我(エゴ)を完全に見切るためには、真我の覚醒がまず初めに存在しなければならない、そしてその正見でもって自己を見なければならないということだと思われる

何故なら、「私は見ていないのだ」ということ、「私とは時間が生み出しているのだ」ということに気づくこと自体が真我という観照者の働き(否定的な接近方法)であり、そして
その観照者の覚醒無くしては、そのことをハッキリと見ることが出来ないからである
そういうことなので
自我(エゴ)の終焉の旅に出るためには、その前に真我の覚醒が必須のことであり
その真我の覚醒が起こった自己が、全力で必須に行うべき事こそが
自我(エゴ)の想念が出現する現場を「見る」事であり、自我(エゴ)の働きを見切ること、即ち「進歩する」「良くなる」「真我一体になる」「神になる」「〜べきである」「〜なる」「〜である」などの時間を含んだマインドの働きを見切ることであり、そうしてその正見の中で完全なる自我(エゴ)の終焉を迎えることであるのではないだろうか

この磔、若しくは十字架、若しくは魂の死が無ければ再生はあり得ない、真我キリストの実現はあり得ないと思われる

私たちはだから、真我の目覚めでとどまることなく、一歩進んで、真我の実現、即ち自我(エゴ)の終焉に向けてのワークを真我の助けを借りて行おうではないか



自己探求
☆真実の自己を求めての旅の始まり
☆自分が行為している、自由意志が有ると思っている
☆神やグルは自分ではないと思っている(探している)
☆輪廻転生している実体があると思っている、コーザル体やサイコノエティック体と自己が同一化して、カルマに縛られている状態
☆覚醒しよう、悟ろう、神と一体になろうというマインド自我(エゴ)の働きと同一化している
☆覚醒が自分以外からやってきて起こると思っている
☆自分が認識し、体験している神秘体験を経験している。対象としての光や神や天使と会うなど
☆外部は内部であるの気づき
☆宇宙存在やアカシックレコード、多重次元などの発見、コンタクト
☆純粋思考による自己観察、と自己想起(主体と客体に同時に注意し、見る者と見られるもの分離無く気づいている状態)
☆自己関心からの解放、自己を忘れること

真我覚醒
☆やってきた真の瞑想の体験(自分が存在しない体験)、真実の愛を体験する
☆「あなたは私」の体験、時間が存在しない体験、非自己の体験
☆真我という全体性、「神は我なり、我は神なり」の体験
☆実相世界の体験(しかし現象世界と実相世界という分離がある)
☆全体そのもの、非分離性との出会い、体験者なしの体験
☆自我(エゴ)の根源に至るワークの始まり、思考の隙間の発見
☆アチューメント(全次元に波長を合わせること)能力の実現
☆宇宙の全意識界のカラクリを理解すること
☆行為し、起こっていることは根源であることを理解すること
☆虚偽を虚偽と完全に見ることの開始
☆内部は外部であるの気づき(宇宙は内部であり、その宇宙は真の私と分離していない)
☆気づきによる自己観察、自己想起(主体と客体に同時に注意し、見る者と見られるものの分離無く気づいている状態)
☆肉体との同一視からの解放、知識からの解放

ワーク開始
自我(エゴ)の終焉

☆自己からの解放、思考からの解放
☆宇宙的マインドシステムの完全理解

☆時間の終焉
☆自我(エゴ)及び他己の脱落・身心脱落
☆虚偽を虚偽と見ることが光である、この見ることそのものが真理であるの状態
☆二元性・分離性の終焉
☆実相即現象
☆ここがここのまま完全、完璧、現象世界と実相世界の分離は仮象だ
☆テオーシスの実現(われはそれなり)

真我実現
☆あるがままをあるがままに見ている
脱落身心

真我覚醒と真我実現の相違について

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