偽我と自我と観照者
一般的にも精神世界でも偽我と自我は非常に混同されているので
自分の考えを
述べてみたい
通常、現在の私の意識状態といわれているのは、自我の意識状態のことであり、自我とは私であるのだ
そして私とはマインドの一部であってマインドが生み出したものである、それが自我というマインドの記憶だ
この私と言う自我は、肉体精神機構の脳と体にしっかりと結ばれ縛られているので、
(これは死後も幽体脳・霊体脳としてその脳のネットワークに縛られており、この状態は肉体から離れて
しまうと幾分かは軽くなったとしてもこの結合は続いていく)
自我とは脳に結び縛られているので、その脳を経由した思考しか自我は受け取れないし作動できない
脳にやってきたマインドは、脳が条件付けられているので、その条件付けられた脳の思考しか自我は受け取れない
しかもその思考の記憶である自我は、それに対して
「自分という記憶」にしたがって反応する、所謂、反応に反応するのだ
やってきているマインドに「条件付けられている脳」が反応し、その歪曲した思考に対して「自我である意識」は
記憶からしか反応することしかできない、要するに決まったようにしか反応できない
この肉体精神機構の脳の条件付けによる反応に、決まったようにしか反応しないのが自我であり
この反応に記憶から決まったように反応し、それが更に記憶となって積み重なっていく、そしてそれが反応する私だ
そしてこの記憶のことを自我と言い、この自我とは(自我としての自己意識)を持っていて霊魂と言われている記憶だ
自我という霊魂が、熟睡中又は夢の中で経験している低次アストラル界の記憶も(脳のネットワーク内での記憶も)
この特定の「プログラムされ条件付けられている肉体精神機構の脳」を通じてでしか受け取れないように
脳の知覚機能が制約されているので
この夢や熟睡中の低次アストラル界での経験とは自我自身の経験であり記憶であるにもかかわらず
「プログラムされブロックされている肉体精神機構の脳」に戻ると(ベットから目がさめると)
この脳の制約を受けているので自我(自我としての自己意識)は、その記憶や体験を思い出すことは出来なくなる
この低次アストラル界での体験とはネットワーク脳の内部での(それは丁度インターネットの世界での)体験とも
言えるが、通常の場合では、その特定の脳の条件付けによって思い出すことは出来ない
しかし、条件付けがある程度解けている肉体精神機構の脳では、思い出せる場合もある
これは同じように
自我には観照者の意識を受け取ることが出来ないように脳がブロックされているので
夢や熟睡中での自我の経験と同じように、熟睡中に自我が観照者に触れていても
ベットから朝、目を覚ますと、熟睡中は「自我という霊魂」は高次の観照者に触れているのだけれど
観照者の意識は自我には意識されないで、肉体精神機構の頭脳を通じた歪曲された情報だけが意識
されており観照者のことを意識することが出来ない、いわゆる思い出せない
この場合も、前記の場合と同じようにある特定の「条件付けから解放されている肉体精神機構の脳」には
この観照者の意識を自我である(自我としての自己意識)に伝える若しくは繋がる場合がある
この観照者がいる次元は高次マインドであり、マインドを超越している気づきの次元とも接触している
観照者という魂(霊魂ではない)はマインドのさらに根源の非顕現の領域からの現象界での接点であり
この観照者の意識が
送受信機である脳とその肉体精神機構が「自我」へと繋がった場合
(超越している次元の非マインド・気づきが伝わった場合)
(脳である肉体精神機構がチューニングされて受信された場合)
自我である(自我としての自己意識)霊魂は終焉し、変成され、生まれ変わることだろう
なので私達は、「自分である自我」をただただ観照することが大切なのだ
自我を非難せず、判断せず、逃避せず、焦点を動かさずに観照しているとき、自我からの自由が生まれる
A:偽我・肉体
(肉体精神機構のことで脳と肉体・幽体、霊体も含み、マインドを受信し発信する装置でありプログラム
されている、マインドの入力で思考し行為しているマシーンであり、これを肉体精神機構即ち偽我という)
(自我はこの肉体精神機構に結ばれ繋がれているので自分が行為し思考していると思ってしまう)
・根源によって創造された肉体精神機構・頭脳とはマインドを受信して送信している各種身体機構
のことであり、アドヴァイタの覚者によっては根源の映画、根源の劇場、神の指人形、神の操り
人形などとも言われているプログラムされている超精密機械である
・肉体精神機構はプログラムされており今回の人生で、生き続けて幽界や霊界までは存続していく人形
であり、親によって名前を付けられている「根源の製作した完璧な完全自動ロボット」人格である
・この完璧な諸身体と「その各次元の脳」を使って根源は(マインドを通じて)行為を起こし、
且つ思考を起こさせ、映像である物語を進行させている
・自身のDNAプログラムを経由してマインドによって為され、マインドに依って思考されているのが
肉体精神機構であるが、その機構自身にも今回の人生の記憶も持っているので、この肉体精神機構
のことを個人とか人格とかいわれている、誕生しそして死後は幽体や霊体として生き続けワサナとなる
・幽界や霊界で過ごした後、「自我・霊魂」とこの偽我が分離するときに、偽我は転生のサイクルには入らず
この自我に関連している一団のプールで次の誕生までそこで留まっており
そこでは、それぞれの自我に関連した肉体を脱いだ人格・精神機構がそれぞれが生活し生き続けている
・自我・霊魂が去った後に切り離された状態の精妙体精神機構のことをワサナといい
自我である霊魂と観照者が去った抜け殻ではあるが粗い記憶・低次記憶体として中有界において生活し
待機状態となって次の転生で霊魂・自我が新しい肉体精神機構を得るまでここで留まっている
この閉鎖幻想空間の中で生き続けている
・自我が次の転生のために新しい肉体(肉体精神機構)に繋がれた(又は受肉した)ときに
ワサナとして、その自我の宿っている肉体の中に一緒に入っていく、そして自我と共に人格
現在のパーソナリティーを構成する一部となる、そして自我はまた新たなる個人・人格という衣を纏う
B:自我・現在のパーソナリティー
(エゴとかサイコノエティック体とか観察者とか、体験者とか言われている私で霊魂とも呼ばれている)
(この自我・霊魂も偽我と同じように根源によって生み出されたものであり、マインドの産物であり
マインドの時空間に棲んでいる
肉体精神機構を通じて受信されたマインドの記憶で成り立っていて、
この記憶体が観照者によって見られることにより、転生のサイクルがマインドの中で発生している)
・根源からのマインドの入力に「肉体精神機構(偽我)」はプログラムにしたがって出力(行為・思考)
するが、それに対して「記憶体・自我」はその肉体精神機構に縛り付けられているので自分が
行為し、思考したと錯覚し、その記憶から自らが更に反応してしまう
・この反応のことを、通常は自分が思考している、自分が思っていると信じており
肉体精神機構から受け取った思考に対して非難したり、判断したり、逃避しようとしたり、成就しよう
としたり、良くなろう、素晴らしくなろう、神の如くになろうとして努力したり、苦しんだり、精進したりする
・自我は肉体精神機構に強制的に繋がれており、この自我は「自我の成果としてのサイコノエティック体」
「記録としてのコーザル体」として輪廻転生を繰り返えさせられているけど、
自我の作られている目的である真の私への帰還、幾多のイニシエーションを経て終焉・脱皮という誕生
を果たすまで、幾多の人生をくぐり抜け、サイコノエティック体を成長させて、他の惑星の救済をすること
ができるまで進化を果たしていくと言われているが、全ては時空間のマインドの範疇のことである
・肉体精神機構にくくりつけられている霊魂の私(自我としての自己意識)の事であるが
転生に関しては過去世の記憶と繋がらないように永遠のパーソナリティーによって操作されており、
新たなる肉体精神機構を得たときは、思い出すことが出来ず自分の事を幼児から成長している肉体だ
と信じ込むようにさせられている
・この(自我としての自己意識)の私は再誕に際しては精妙なる精神機構から離れ
永遠のパーソナリティーにコーザル体として収納されてしまう、
そしてその観照者である永遠のパーソナリティーの中では意識は眠りに陥り
(それは丁度、毎日熟睡しているのと同じく)
新たなる肉体精神機構にコーザル体とサイコノエティック体として再び宿り
過去を忘却させられた状態で新たなる肉体精神機構の中で学ばされていく、と言われている
このシステム全体がマーヤがマインドを使用して構築したものである
・マインドの反応である思考に対して同じようにマインドである思考の記憶から反応している
それこそが
私(自我としての自己意識)であり霊魂であり、肉体精神機構と同じく根源の操り人形である特徴だ
根源が時空間の中にマインドを生み出し、そのマインドが自己という錯覚を起こしている
・この(自我としての自己意識である)私とはそれぞれの人生で受肉した自我のことであり
この自我という霊魂の抜け殻がワサナである、このワサナは数珠の様に現在の自我・現在のパー
ソナリティーという糸によって結ばれている
そしてこの数珠を通している糸と真の私とが繋がったとき全ての数珠である自我達は昇天することが出来る
この数珠の中のワサナを繋いでいる今生で生きている私(自我としての自己意識)という糸に覚醒が起こり
炎が起きたとき、繋がっている全ての数珠も燃え上がり、聖なる昇天を果たすこととなる
私は実は存在していなかったという気づきが起きたときこの私達は消滅する
このためのワークが自我をあるがままに観照すること、非難無く、逃避なく、言葉を使わなく全的に観照
することである
・今生での私(自我としての自己意識)は従ってこの数珠である私達のワサナ・人格の代表として意識を付
与され思考し、転生していると思っている
・この肉体精神機構と自我はともに「映画のスクリーンである観照者」の中で起きている映像であり
このスクリーンがあるがゆえに成り立っている映画でもある
スクリーンである観照者はこの起こっている映画を、起きている肉体精神機構と自我を
非難せず、判断せず、善悪を区別せず、逃避せず、同一化せずに観照している私のことである
・行為や思考は肉体精神機構に起こっていることなのに自分が思考し、行為していると思ってしまって
いる私が自我である、そしてこの自我とはマインドであり、マインドが作った創作物である
・自我は根源からのマインドのそのプログラムとその条件付けに従って行為している肉体精神機構に
縛り付けられていて、死後も同じくより精妙な身体精神機構に繋がれて、転生を続けて成長
している私
・始まりと終わりがあるのが自我である、なぜならマインドの過去現在未来という時間の中で生き
ているからである
・自我の本質は頭脳の条件付けの結果であるともいえる、その条件付けられた頭脳の思考の
記憶がその本質だからだ
だからその頭脳がより精妙なるマインドを受信できるようになるとき自我も同じようにより精妙なる
マインドと同調する
マインドではない気づきに頭脳が同調できるほど、頭脳の条件付けが解除されたとき
頭脳は気づきの媒体となることが出来、そしてその時、自我は消滅し、生まれ変わった気づきの
媒体として、各惑星で一つの意識体として働くことが出来る様になるといわれている
・
・自我は自らの記憶という「条件付けからである思考」から起こっている映像に対して非難したり
逃避したり、同一化してしまうばかりで、決してあるがままをあるがままに見ることは出来ず
集中ではなく言葉を使うことなく観照することが出来ないしそのようにしようとしない
・自我とは、記憶であり、その記憶の特徴は判断すること、非難すること、知覚すること、認識すること
記憶すること、体験することであり言葉、知識、情報であり、論理的思考、抽象思考を得意として
壮大なる体系を構築する
が、しかしそれらは記憶の反応であり、自我の構築している伽藍に過ぎない
この自我をあるがままに見ることが自我からの解放をもたらす
・自我はあるがままであるものに自我からの想念形態・エレメンタルを付け加えて疑似創作物を
を構築した、それはこの物質界だけではなく、幽界や霊界や~界に於いても同じであり
本来のあるがままに、自我からの観念と想念が上積みされている
がこれらのことは全てが根源から起こっている映画であると言われている
この映画こそ根源の作っているマインドが投影している
過去も現在も未来も同時に今此処に起こっている幻影であり、存在していないマーヤと言われている
そして、この地点から見なければ決して輪廻転生のカラクリは分からないといわれている
転生は単純な進化成長の過程ではなく、過去現在未来と同時に存在しているカラクリである
全てはマインドの中に起こっている錯覚だと言われている
C:観照者・永遠のパーソナリティー
(永遠のパーソナリティーとか目撃者とか鏡とか魂(霊魂ではない)と呼ばれている非個人的な私
記憶や思考やマインドではない「気づき」の私、自我をあるがままに見ている私
その非個人、非人格的な気づきから魂と呼ばれている私)
・この観照者は全くもって個人的な霊魂や記憶の集合魂ではなく、非個人的な存在の一部として現象
界に接触している『マインドではない「気づきの私」』である
・この観照者の一部に転生している自我のコーザル体やサイコノエティック体の成果であるものが
引き継がれ、転生サイクルを支えているが
その転生している霊魂の私を観照しているのが永遠のパーソナリティーである観照者である
・行為者(自分が行為していると思っている霊魂自我)や思考者(肉体精神機構に思考が起こっているのに、
自分が思考していると思考している自我である「私」)を非難無く、判断なく、選択無く、
逃避することなく、同一化することなく、あるがままをあるがままに受動的に観照している私のこと
・クリシュナムルティーが見なさい、あるがままをあるがままに見なさいとい言われているのが
この観照している私である
「観察者は観察されるものである」の照見が起こったとき、この観照者が顕現しているといわれる
・覚者達がグルとして私達に語りかけておられるのは、自我に対してではなくて、この観照者に対して
語りかけておられる
・真の私はこの観照者を媒体にして働き掛けておられるので、チャネリングやオーバーシャドウなどの
手段で直接的に私達の次元に働き掛けているのは低次アストラル界の意識体であって
決して高次元の存在ではない
・個人や人格や霊魂や自我である現在のパーソナリティーではなくて、神によって神の一部分として
全体であるところの永遠のパーソナリティーであり、
個人という分離している存在ではなくて全体の一部として全体を構成している世界でたった一つの
独自の永遠のわたしであり、決して全体と分離していない、全体の一部分である
(しかしこの自分が頭脳と結ばれるには、脳の条件付けが外されて、自己と言う者が存在していなかっ
たという照見が起こり、分離した自我が完全に終焉していなければならない)
E:真の私
(ラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジやクリシュナムルティーによって言われている「私=私」であり
言葉では示すことも話すことも、象徴として何かを示すこともない、決して対象化しない絶対主体であり
ある場合はキリスト純粋絶対主体などと呼ばれ、時間空間という認識形式では一切表現不能であり
語ることも、伝えることも、話すことも、知覚することも、記憶することも、体験することも出来ない
マインドや時間には一切触れることのない実在である
(しかし実在の中にはこのマーヤも含まれていると言われる)
クリシュナムルティーなどによって人格でも神格でもなく絶対なる愛と言われている愛そのもので
全ての本質そのものでもある
マインドの根源を生み出している根源であり、空とか無とか無限とか絶対なる叡智、絶対なる愛とも
未知なる至聖なる実在などともいわれ、未知なるもの、絶対なるものであるが人格的な対象を持っている
主体ではなく、即ち絶対主体である)
・非思考、非対象、「思考の沈黙ではない沈黙」などと言われており
更にこの先にサットチットアーナンダと言われる真我へと続いている
・「見るものは見られるものである」であり、見る者と見られる者の分離が無く見るだけがある次元
マインドではない次元
・言葉や知識や思考では決して参入出来ず、語ることも、考えることも、話すことも、伝えることも
想像する事も、体験することも、記憶することも、認識することも出来ないあるがままである
・観照者によって覚知される、時間と空間と記憶を超越した覚識であり、実在と呼ばれている
・ヨーガの系統によっては神聖なる愛、神聖なる叡智、神聖なる存在いわゆるサットチットアーナン
ダとも言われている至高なる実在