仏陀の教えと八正道


仏陀は私達の意識レベルに応じてそれぞれの場面で、それぞれの意識レベルに合わせた教えを説いている。

それはクリシュナムルティーも同じで、講話や書籍の中では、一般の自我意識に覆われて、「魂の意識に

繋がっていない意識レベル」の人を対象に、話しているから、本だけの知識の人はクリシュナムルティーを

間違って捉えてしまう。

たとえばグルに関してであるが

著書の中ではグルを否定しているように見受けられるけれども、極く少数の高次の意識レベルに接近している弟子に

対しては、グルの重要性と、そのグルの指導なくしては実現が困難である、ということを説いていたのである。



おそらくそのようなことは仏陀も同じであったと思われる。



一般的な、未だに魂の意識と繋がっていないレベルの人と、少し進んだ弟子では話される内容に於いて異なっている

のである。

仏陀も、弟子のレベルに合わせて、誤解することのないように慎重に言葉を選んで真理を説いていたことと思われる。

Aという弟子が、「魂である永遠のパーソナリティー・観照者」の意識にあれば、それなりの教えを説いたであろうし、

Bという弟子が、さらに先の真我の意識レベルにある場合は、

おそらくラマナ・マハリシやラーマクリシュナの著書でいわれているような内容のことを話されていたことであろう。



そこでラーマクリシュナやラマナ・マハリシの本を読んで

私達が混同してしまうのは、彼らが話しているのは、内輪の魂の意識で在るレベルの人に語っていることを

私達、自我丸出しの意識レベルの者が自分にとって、「真理は誰にとっても同じだ」と勝手に、真理とは、もの

とか物体と同じような事柄だと解釈して、都合の良いような内容へと誤解してしまう事である。

受け取るレベルによっては「良薬は薬にも毒にもなる」になってしまうことなのに、私達は言葉だけ暗記しているのに

真理は同じだと、思ってしまうことなのである。



だから、このように誤解してしまうことのないように慎重に、相手のレベルに合わせて言葉を選んだのである。

真我の意識である教師が、

魂という観照者レベルに到達した弟子に向かって話すことと

まだ魂の意識すら垣間見ていない、自我の意識に覆われている弟子に対して話すこととは、

その話すことの言葉は全く異なってしまっていると言うことである。



仏陀が最高の弟子達に向かっては、言語を使わず沈黙の内に、魂の内側から言葉無き言葉で話されたように

この魂の内奥に繋がるレベルの意識に接近していた弟子には

ラーマクリシュナやラマナ・マハリシ達の書籍の中で述べられているように、

ある場合は、言葉でもっても話されたことだろう

「全ては神であり、神以外に何もなく、私達は行為しておらず神が行為しておられる、そこには自我は存在していない」

「見るものは見られるものである」

「全ては完全完璧で、今此処あるがままがあるがままにある」などの言明でもそれは明らかである。が


しかし、それは、このことの本当の理解とは

この私達が、「魂・観照者の意識」と繋がっていない意識レベルに於いては、それを正しく理解することは出来ない

ことなのである。



何故なら、私達はその語られている真理の言葉を、自分のいる自我に覆われている意識レベルで聞くからであり


その言葉を聴いた場合は、この現在の個我の意識レベルで引きづり降ろして解釈し、即ち必ず誤解してしまうこと

になるからである。


自分の現実の姿を直視する代わりに、その「真実の真理」を自己の隠れ蓑として使ってしまい

自我によって、真我になりすます「自我の擬態」という、自我が行う罠に捉えられ

自己催眠の状態に陥り、そして現在のこの個我+自我の状況を、それによって自己正当化してしまうからである。



極端な場合、覚者がたの「自我はいない、自己とは幻想に過ぎない」という、真理を聞いて、それを、自我はさっそく

利用し、「私は神であり、真我である」「私は存在していない、私は行為していない、全ては起こっているのだ」

とか、言い出して、自分も周りの人も、騙しだすのである。


しかし、それは自我がそのように暗記して言っているだけであり、理解はない。

そこには自我による自己の正当化と、自我による自己催眠しかない。自分に嘘を言っている事しかない。

それが自我の虚偽に満ちているのは誰の眼にも明らかである。



その「私とは観念であり、私は存在していない。自我は無い。私は神であり真我である」と自我が言っているとき、

それをいっている私・自我の周りには自我の悪臭がプンプンと漂い臭っている。


このような自我による自己欺瞞に陥ることが、ないように仏陀は

魂の内奥の意識と結びついていない段階の人には、そのような高次な真理を言っても必ず誤解をしてしまうものなので

その魂の内奥の意識に結びつくようにする為に必要な八正道というものを説かれたのである。


自我の意識から抜け出ていない人にとっては、高次の真理の言葉を聴いても必ず自己流に誤解してしまうことなので

決して、その意識レベルに達していない限りは正しく理解されることができない事柄は敢えて話さなかったし、それらの

質問には答えなかったのである。




仏典にはこう書かれている

その昔、マールンクヤー・プッタという比丘が、釈尊に質問しました。

(1)、この世は有限であるか無限であるか。

(2)霊魂と肉体は一つであるか各別であるか。

(3)人は死して後も存在するかしないか。と。

しかし、釈尊は何も答えなかった。

さらに、その比丘が血色ばって詰め寄ると

「わたしは、世界の常住。無住、あるいは有辺・無辺については、なにも説かない。

また、霊魂、肉体のことあるいは死後の存在については、何事も説かない。

それらの事は、道理の把握に役立たず、聖道の実践には役立たず、究極の目的の実現に役立たないからである。」

と語った


ここでその八正道ということについて、真我探求している人は、とても誤解して捉えている人が多いので八正道を

正しく紹介したい。

八正道とは八聖道と言い、それを何かの道徳訓やモーゼの十戒のように思って誤解している人が多い



多少長いけれども、goo Wikipediaに掲載されているのをそのまま紹介したい



八正道とは?

八正道(はっしょうどう、aaryaaSTaaGgo-maargo、)は、釈迦が最初の説法において説いたとされる、涅槃に至る修行の基本となる、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定の、8種の徳。「八聖道」とも「八支正道」とも言うが、倶舎論では「八聖道支」としている。この 「道」が偏蛇を離れているので正道といい、聖者の「道」であるから聖道(aaryaamaarga)と言う。


概略:

八正道は四諦の中の道諦として説かれるから、教学的には四諦の教え以外に八正道が別にあるわけではない。四諦といえば、そこに道諦として八正道があるのだから別に、古来いわれるように四諦八正道と併称する必要はないが、このような総括がインドの様式のようである。

古い『相応部経典』では、釈迦は、その最初の説法(初転法輪)で、まず非苦非楽の中道を説き、それを八正道であるといい、さらに四諦を説いたといわれる。四諦を説いて、その道諦として八正道を説いたのでなく、中道とは八正道であることを説いて、ついで四諦を説いたのである。このことは、四諦という教義的組織は、八正道を中道と説く立場の教義的な裏づけであることを示している。釈迦の説法は、直接に人間の実践を主としており、教理は実践を体系付け裏付けるものである。われわれの仏教の理解も、書物による知識ではなく常に現実における実践を中心としなくてはならない。


正見:

「正しく眼の無常を観察すべし。かくの如く観ずるをば是を正見と名く。正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。喜と貪とを離るるが故に、我は心が正しく解脱すと説くなり」といわれる。われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り、自分の心身を厭う思を起こし、心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」(samyag-dRSTi, sammaa-diTTi)である。このように現実を厭うことは、一見、人間の日常性を否定する消極的なもののように思われる。しかし、その日常性の否定によって、結果として、真実の認識に至るための必要条件の一つが達せられるのである。この意味で「心解脱」といわれ、正見が「四諦の智」といわれる。

この正見は、以下の七種の正道によって実現される。その点で、八正道は、すべて正見である「智慧」の活動してゆく相である。 八正道は全て正見に納まる。


正思惟:

正思惟(samyak-saMkalpa, sammaa-saGkalpa)とは、出家を思惟し無瞋を思惟し、無害を思惟することである。このうち「出家を思惟する」とはパーリの原文では「ネッカンマ・サンカッパ」(nekkhamma saMkappa)であって、「nekkhamma」とは「否認」「否定」の意味だから、日常的なもののいっさいの否定をいう。財欲、色欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲等の「五欲」にまつわる、人間の日常生活の否定であり、それを思惟することが正思惟である。

この五欲の心の否定は、具体的には無瞋の思惟、無害の思惟である。いわば瞋恚の心や害心のすがたを、ありのままの姿で思惟し、これを捨てることを思惟するのである。自己本位にふるまう人間の行動や、独善的な人間の行為を、思惟によって明らかにして、これを否定するのである。

このように正思惟とは、自我的立場を否定して、無我こそ自己の真実であると見きわめることである。この立場の転換に人間生存の転換がなされる。しかし、それが「正思惟」である限り、このような生の転換も観念的である。そこで、次の「正語」と「正業」が説かれ、正思惟の中に示される行動への意志が実行されるのである。


正語:

正語(samyag-vaac, sammaa-vaacaa)とは、妄語を離れ、綺語を離れ、両舌を離れ、悪口を離れることである。


正業(正行):

正業(samyak-kalmaanta, sammaa-kammanta)とは、殺生を離れ、不与取を離れ、愛欲を離れ、愛欲における邪行より離れることをいう。 この二つは正思惟されたものの実践である。妄語・綺語・悪口・両舌を離れること、これは人格の破壊を斥けるものであり、殺生・偸盗・邪婬を離れることは人間人格の尊重である。



正命:

正命(samyag-aajiiva, sammaa-aajiiva)

「邪命を捨てて、正命によって命を営む」とか「如法に衣服、飲食、臥具、湯薬を求めて不如法に非ず」といわれるのは、如法な生活それが正命であることをあらわす。これは、まちがった生活を捨てて正しい生活を営むことであり、常に無明を滅する方向に動いてゆく生活である。したがって、それは人間の日常性に根差している価値を追求する生活を否定するものである。この点、「正命」はこのようにすべき生活として求められつつあるものである。


正精進:
この「正命」の生活は、ひたすらな努力の中にのみ得られる。このひたむきな努力の生活、それが「正精進」(samyag-vyaayaama, sammaa-vaayaama)である。「未生の悪、不善法の不生のために欲を生じ、勤め精進し、心を摂し努力する」「常に行じて退せざるを正精進という」というのは、これをいう。これが、やがて四正勤(ししょうごん)として、すでに起こった悪不善を断ずる努力、未来に起こる悪不善を生こらないようにする努力、過去の善法の増長への努力として説かれるようになった。


正念:

このような「正精進」に示される現前の事実的価値追求への否定の努力は、主として過去の集約として与えられた、身体的なものに対する否定である。このような立場から「身にありて身を観察して住し、熱心にして正しく理解し、精神を集中し、明瞭な心と精神集中と、専一なる心とをもって、如実に身体を知る」と説かれるのが「正念」(samyak-smrTi, sammaa-sati)である。

現にあるものとしてでなく、あるべきものとしての「正命」が実現されるのは、身体における日常的なものが克服されることによってである。それが「身の観察であり、精神を集中して如実に知る」ことである限り、真に身体的なものの克服とはなりえないで、やはりイデア的であることを免れない。これを身体的なものとして、生活自身において克服するものそれが「正定」である。


正定:

「心は不乱に住し、堅固摂持し、三昧一心に寂止す」と説かれる。これは心身一致の禅定において正しい智慧を完成することである。
この「正定」(samyak-samaadhi, sammaa-samaadhi)によってはじめて、「正見」が得られるのである。


このようにして、八正道は八聖道として人間完成への道となる。これを人間の実践として、中道であると説くのである。以上の八正道の「正見」こそ真実の智慧の実践であり、それを実現してゆく具体的な道が「正思惟」以下の七支であるから、この八正道は、次のような形で人間の実践道となる。
























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