無為とは救済である
無為、・・・・無為とは何か
無為とは行っているわたしが、もう何処にもいないという状態のことであろうかと思う
けれど
この高次の意識状態を、それを全く体験したことのない私・人格が話すことなど出来るだろうか
私がどこにもいないという体験をしたことがある聖者ならそれを話すことが出来よう
理解もしておらず、(知的理解とは誤解である)分かったこともないものが、それを実際に味わったことがない者が、その味を述べることが出来るだろうか
もしそれを述べたとしたら、それは嘘になってしまう
この精神世界の道は、芸術の道に似ている、上手に演奏が出来ない者が、楽器すら手にしたこともない者が演奏はこの様にしたらいいのである!?等と言うことが出来るはずがないのである
そういうわけで、そのような未経験の私が推測するに
無為とは、心の中の恐怖や高慢に反応している私に(この恐怖や高慢をどうかしようとしている私に)
完全に気づいている状態。
恐怖などのそれらに反応している自分というものを、ただただ鋭敏に動かず受動的に見ている状態。
若しくは恐怖や高慢などの起こっているものに反応している私のことを観察している私に
更に気づいている状態ともいえる。そして、それから自由になった状態。
無為ということは、「私が存在せずにいる栄光の状態」ということであり、
聖者達によって「行為とは私はしておらず、起こっているのだ」と叙述されている「思考が絶滅している」意識次元のことであろう。
それはもはや何かを行うところの私がいない状態のことである。
なのに、この「自我である私」が聖者の本を受け売りして、こてこてのマインドの状態であり、自我に支配されて、全てを分離して見ている観点から、口先だけで言うところの「全ては起こっている」「私は何もしていない」のだ、などと云うことは、単なる自我マインドの次元から言っているので、至高の言葉も嘘となってしまうのである。
真理というものも、そこに至っていない者が話すとき、それは嘘になる。泳げない者が泳ぎについて話すことは邪悪である。
そういうことなので私・人格は話す資格のないのに記述していることになってしまう
以下のことは私・人格の日記であることをお断りした上でお話ししたい
無為それは、行為者であるところの「行為しているとおもっている自我」というマインドが存在しておらず、
観察者を受動的に全体的に凝視している「気づき」という本来の意識が生じている状態のことである。
即ち「行為していると思っているわたし」、カルマの担い手、カルマの相続人、運命や星占いの範疇の個人が解消し、消滅しているという最高の状態でもある。
自我である第一想念に付着している私のカルマ、即ち魂を取り囲んだプログラムが解消している状態でもある、といわれている。
それは畢竟するにカルマからの解放、プログラムからの解放、輪廻からの解放、魂からの解放でもある沈黙の次元状態に違いないことだろう。
その状態とは頭脳の「条件付け」、「やってくること」「プログラムであること」などからの解放であり
無思考、無対象の真の私であるものの新たなる「気づき」次元の顕現でもあるのではないだろか
それはまた、
現象界へと向かって開かれている窓(意識の座、永遠のパーソナリティーという窓)を通じて、彼岸(実相界)からの愛と秩序と救済が流入し顕現して来ていると言うことでもあろう
従って無為の段階を顕現した場合(自我が存在していなかったと言うことを領解する段階に至った場合)は、
そこには行為する者である私もなく、あなたもなく、そこで始めて「行為者なく行為が起きているのだ」と言明できるのだとおもう。
それは観照者(観察者ではない)のステイトである。「今・此処・在る」の究極のステイトであると思われる。
その窓という現象界に向かって開かれている「意識の座・永遠のパーソナリティー」を通じて
愛と秩序と救済ということが真の私から流れ始めているということなのだろう。
これが上江洲義秀先生をはじめ聖者達の愛の放射と言われている状態ステイトである。
それは個体に与えられた現象界での魂のプログラムを超越し、あらゆる条件付けや、カルマや運命を超越した状態であり
「起こる事」や「やってくること」などを分離している対象と見ないで、それらを主体無く見て、それと私は分離していないのだ、と正見し、
そしてそれらの「起こる事」や「やってきていること」を更に超越し、変革し
為す者が存在しない、対象の存在しない私なき栄光の真の自由が在る。それが「今」「ここ」 「在る」なのではないだろうか。
そこが無思考、無対象、平和、沈黙、愛、自由などと呼ばれている内なる真の私の地平であるのではないだろうか
これこそが条件付けからの自由、プログラムからの自由となったものの状態である。
その時、その窓を通じて救済や愛の放射と言われている真の行為(無為)が発露するところの本来の自由の状態なので
はないだろうか
条件付けられたプログラムを超越し、聖なる根源からの聖なる催眠を超越し、マインドと自我が脱落したとき
「無為」の中で、真我からの現象界への救済・愛の放射という、全く次元を事にする働きが起動し出したのであろう。
これが無為の働きではないだろうか、これが個人や魂を超越した聖人方の状態ではないだろうか。
そして、この無為が人類のみならず、あらゆる次元におられる三千世界の方々や万物を救済するのである。それが愛と秩序と平安をもたらすのだ。
これに反して、私たちのマインドレベルでのわたしの通常の行為とは、必ず行為する主体と、その対象である「行為の対象」が行為の中に言外に含まれており、二元分離がある
これは「感じる」や「考える」でも同じ事で、必ずそこには考える私や感じる私という「私」が前提として含まれているのではないだろうか
であるので私が「行為している」という場合は、
マインドの私・人格がそこにおり、そのマインドの私・人格というマトリックスの映像が、投影されており、全てが起こって、やってきていることであるのに、それを観察した第一想念が、「それは私とは別である」と錯覚し、個人である自分(第一想念)が行為し、考えて、感じていると思い込むのである。それが「私が行為している」と思い込むのである
この分離感があるからこそ、恐怖と悲しみの連鎖のストーリーと言う映像に巻き込まれてしまうのではないか
正しく私自身として分離せずに見ることが出来ないために、本当は内側から投影しているものを、外部からやってきていることでそれは私ではないと分離し、錯覚して捉えてしまうのだ、と云われている。
そして、そこの錯覚には行為する主体(自我)と、行為の対象が必ず存在しており、常に「私」が創り出されてしまっており
結果、この状態においては、そこで行為する主体である行為者という「概念・私」が維持され、
それがカルマという原因と結果が絶えることなく維持され、回転させるシステムを支えてしまうことになる
輪廻という「苦界」が続いていくことになるのだ
けれど、わたし達にとってはそれが苦界と感じられないのは
緩衝装置(これをグルジェフはクンダバファーというものが、脊柱の基底部にあって、人類に於いてはこれが働いており、それがこの現象界を維持させるために、実際の苦界である苦痛を感じさせないようにする、又は眠り込ませる催眠装置と言っている)と言われるものが有って、それによって、この現象界は苦しみであるのに、楽しい世界のように思い込まされているわけだといわれている。
この緩衝装置が働くことによって、私たちは、この現象界(苦界)というマトリックスのあるがままの恐怖や苦痛を味わうことも、認識することもなく、実際はウジ虫がうじゃうじゃしている現象マインド世界の中にいるのに、素晴らしい楽園の中で快適に暮らしていると思わされているのだといわれている
(この苦界である現象界を維持させ回転させている聖なる根源が、マトリックスという錯覚を生みだし、私たちは本当は既に一体であるのに個別な人格だと錯覚させ、この錯覚を維持させ強固にさせており、それが個体に於いては、クンダバファーという苦痛を感じさせない催眠緩衝装置を埋め込み、作動させているのだと言われております)
この聖なる根源のプログラムは更に頭脳の条件付けと、魂に覆い被されたプログラムによって確実に分離しているという幻想を強化し、私たちは自他が分離し、外部に世界があるのだと思い込まされているのではないでしょうか
この聖なるプログラムが生み出しているものこそがこの「私が行為している」という錯覚だということ
私たちが、「自分が行為している」と信じさせられているのは思考という記憶が働いている為であり
私たちがこの思考から解放され、記憶から解放され、そして自我から解放され、頭脳の条件付けから解放され、魂のプログラムから解放されるとき
行為者という錯覚からも解放されて、そこに「無為」が出現するのではないでしょうか
そしてその時、私たちは根源からのプログラムから解放されて、「わたし」も「わたしのもの」もなく、救済される者も、救済される対象も実際には存在しないのだという
「真の救済」と言う無為がこの現象界に顕現していくのではないでしょうか
その時、私たちには計り知れない「行為者の存在しない「今」で在ある愛」が自由を伴って、真我である全体から輝き出すのではないでしょうか
それが本当の真我実現された聖者方の無為といわれる愛の行為、行為者なき行為
即ち無為という救済なのではないでしょうか