「あるがままをあるがままに見ていること」が解放をもたらす
クリシュナムルティーはいう
「あるがままをあるがままに見ることが真理である」と
真実の究極の実在なるものが顕現するのは
「あるがままをあるがままに見ること」の中にのみであるという
平たく言えば、最初から在るところの絶対存在(真我・神)が意識の座に輝くことが出来るのは
「あるがままをあるがままに見ている」中で、(即ち「記憶無しに見ること」により)変換が起こり
あるがままである悲しみが喜びに、憎しみが愛に変わること、
即ち虚偽であるもの、が鏡から霧散すると言うことであると思われる
そして、その際に、重要なることとは
「あるがままをあるがままに見る」ためには記憶が働いていては、あるがままに見ることが出来ないということを力説されている
記憶という二元性のマインドが働いていることは分離という状態であり、その分離性では真には見ることは出来ない
この分離の状態では「あるがままを見ること」は出来ないのだ
あるがままに見るとは「見るものは見られるものである」の「見」で見ることである
見ている主体こそ、その見られている客体であるもの、即ち怒りや、欲望や、苦しみなのだ
あるがままを「記憶無くして凝視している事そのこと」が、それが真理の状態であるという
あるがままとは、内部の起こっている恐怖であり、不安であり、嫉妬であり、暴力である
(分離性のマインドによって、そしてその思考や記憶によって歪められそのように受け止められ命名されているもの)
そしてその際に「正しく見ること」の一番障害になるものが、内部の矛盾である、と言われる
即ちあるがままの恐怖や嫉妬や暴力を見て、自分が恐怖や嫉妬や暴力そのものであるのにもかかわらず
良くなろうとする、事である、自分はこのような自分であってはならないと、あるがままの自分を非難することである、ねばならないと自分を矯正し、強請する、そしてこのあるがままの自分から逃避しようとすることである。
あるがままとは悲しみであり、苦しみや恐怖であるのに、それではないものである喜びや平安になろうとしたりする
この内部のマインドの中身は喜びや、愛や平安ではないのに、そうであることを願い、それを偽装するのである
この自己矛盾の状態こそが「あるがままに見ること」での、大きな障害である
このあるがままを見て、あるべきものに変わろうとして努力するものこそ障害であるもの、マインド
それが観察者である
それでは、この自己矛盾している観察者に気づいているものとは、誰か
観察者を凝視しているものは観察者であり
その観察者の動きを凝視しているものは観察者の一部である
しかし、この観察者と観察者の働きと言うシステムを注意しているものはだれか
これらの内面全体の意識を留意しているものは「気づき」という“非二元性からの観照者”
(「非分離性である観照者」がこの「分離性・マインドという知覚可能な領域」に触れている「接点」)
の働きである、と言われている
この留意とは、マインドの一部ではあるけれど純粋思考、若しくは高等思考などと呼ばれており、
両方の領域(実在界・現象界)に跨って働いている「否定的接近」と言われている観照者の意識状態である
とニサルガダッタ・マハラジは言う
この観照者の意識自体は
知覚し、認識し、体験し、記録する、知識などでは伝達不可能なもの、
言葉では伝達不可能なもの、自他分離のエネルギーでは伝達不可能なものであり、「在る」と呼ばれている意識である
クリシュナムルティーのいう「記憶無くして見る」とは、この観照者で見るということである
上江洲義秀先生の「神は我なり、我は神なり」の意識状態で以て、あるがままを「見る」ということである
この「見る」こそ気づきである、「我は在る」である
これが私たちのマインドという意識を支えているものであり、あるがままを「見る」その見である
さらにこの観照者の意識状態を観察者であるマインド側の言語で説明すると
・私たちが見ていないことに気づくこと
・意識に意識していること
・マインドに留意していること
・観察者に留意していること
・不注意に気がつくこと
・自他の分離に捕らわれていること(他人を私ではないと思っていること)に気づくこと
・内部と外部に分離していること(世界や宇宙は自分ではないと思ったりしていること)にきづくこと
・今に気づいていないこと(過去や未来等の時間があると思っていること)に気づくこと
等となる
これを更に詳しく説明すると
まずマインドに留意するということをとってみると
このマインドとは勿論、この私自身であり、観察者である私自身でもあり、自他分離の想念でもあるのであるのだが、過去からの全ての条件付けられた頭脳を経由して創られた記憶の集合体である
具体的なこのマインドの意識とは次のようになる
☆私が進化し、進歩し、愛深くなり、悟りを開き、終局には全ての人が成就すると思い信じること
☆自分は宇宙の根源と出会い、神や天使と出会ったり、繋がったり、そしてそのエネルギーを受けて、歓喜と平安という体験をしていると思っている、(そこでは「体験をしている私がいる」のであり、より精妙であり、他の次元であっても二元性の領域であることに気がつかないのだ)
☆全ての体験者、またそれを経験しているその経験者、その記憶者、それを知覚している、知覚者、観察している観察者、見ている主体、真実はそれらこそがマインドそのものである
(真の非分離性・非二元性においてはそれを体験しているもの、観察しているものはいない、存在できないのだ、その 体験と観察と知覚、観察というもの自体が二元性の特徴であり状態なのだから、二元性の特徴である経験、経験者、経験されるものの分離は存在しないのだ)
☆過去、現在、未来を時間の流れとして知覚していること、
未来は今此処にあり、過去も今此処にあると言われているのに、2012年を将来のこととして時間の罠に捉えられている もの、時間の過去現在未来という感覚こそマインドの特徴である「〜なる」ことである、「〜すること」である
☆自分は他人とは違っている(自分は特別だと思い込み、普通の人は…などと言ったりすること)、普通とは違う、他人より優れているという感覚、自己感覚、自己関心、それこそが全人類マインド(集合意識)の共通の感覚である
☆自分という、他人とは「分離している自己」という感覚、「個人」や「人格」。この人格や個人は自分のものではなくて、マインドのもの、条件付けられた頭脳が創り出したもの、記憶の塊である。そしてその記憶の集合が人類の集合意識という想念帯である
頭脳を経由した感覚や思考や感情が記憶ととして凝縮し、その記憶が肉体と同一視している結果生み出されたのが現在の個人という人格である、
★これが肉体(又は他の体)と同一視した記憶であるところの自我(エゴ)である
★過去世の記憶である個人や人格の低次の記憶がワサナである
★そしてその過去の記憶の中次の記録体がコーザル体、所謂、輪廻している魂(サイコノエ
ティック体)と呼ばれるものである
★そしてそれらの、もろもろの意識が投影されている映写幕、即ち本体こそ「鏡」と呼ばれて
いる観照者である、これが「意識の座」である
★さらにその観照者という意識界(現象界)の接点の奥に無限で全体の「気づき」がある
真我、真の私とよばれているものである
☆所有という感覚、自分のもの、と言う感覚、個人や人格という感覚、この対極のものこそが「自分は存在しない」、「自分は何者でもない」と言う感覚であり、これこそが観照者からの微風である
☆二元性・分離性を超克して非二元性に至ろうとすること
(非二元性・非分離性は至るのではなく、今此処に既に「我が内に在る」と教えられている、それを外部にあると思い込んで、そこに到ろうとしているものこそマインドである)
☆より高い意識を成就することを願うこと、そして努力すること
☆自己変革や自己成就を願い、真我覚醒を目指すこと、
そしてその為に色々と会合に行ったり、講習会を受講したり、瞑想法を実践したり、異次元空間で神や天使や宇宙人と会って、究極的にはその意識に至れると思い、色々と努力したりすること
(観照者は願わない、知覚しない、体験しない、経験しない、「在る」、既に「在る」。
究極との合一を願って努力し、色々と知覚し、経験し、体験するものはマインドであり、それは結局は何処にも行き着かない、意識界の中で放浪するだけだ)
☆進化し、進化している、そして進化すると思っているもの、若しくは進歩し、進歩しているとおもっているもの
(この時間と言うものこそがマインドの本質である)
☆自分が生きており、自分の人生であり、自分が願っており、自分が行為していると思っているもの、即ち行為者
(自分が生きているのではなくて根源が生きているのであり、この人生は根源の人生であり、個人は全く介在していない、また欲望し、願い、恋し、熱情を動かしているのは根源である。私が願っていると錯覚している
私が行為しているのではない、行為は起こっている。
根源によって引き起こされているにもかかわらず、自分が行為していると錯覚しているのは記憶であるマインドである
行為や出来事や運命は根源(ブラフマン)が起こし、生きているのであり、出来事や運命にはマインドは介在していないのにもかかわらず
マインドという記憶体の自己は自分の運命であり、カルマであり、宿命であり、自分の人生であり、自分が行為していると錯覚しているだけなのだ、
しかし此処でハッキリと自覚すべきは、その根源によって起きている事や出来事、運命とに正しく出会うことは出来ないと言うことである、
私たちは、常にマインドという部厚い膜と条件付けを通過して出来事に出会っているので、根源によって引き起こされている人生や出来事や意志に触れていないということである、
マインドによる自我の知覚の膜で混濁し、さらに分離性という思考で歪められて人生の出来事に出会っているのだ、自分の外部として)
☆何かをすること、(あらゆる行為やすることは根源からやってきているのにもかかわらず、マインドは何かをしようとし、何かをしていると錯覚する)
☆「〜なる」「〜良くなろう」とすること、良くなろうとすること、探求すること、信仰し、祈り、懇願すること
自己改革、自己改善、自己変革などを行い、良くなっていくと錯覚する
☆比較すること、判断すること、非難すること
☆同一化すること
☆逃避すること
☆善悪の判断をすること
☆救いと解放を願うこと(事実は既に救われている、既に解放されている、にもかかわらず、記憶であるマインドが、救われたい、解放されたいと願っているのである、それがマインドである私である、私とはマインドである、記憶である)
☆神との合一を願うこと、普遍でありたい、完全でありたいと願うこと
☆安全を願うこと
☆安定を願い、欲すること
☆意識界のあらゆる存在を、神を、天使を対象として、自分以外の存在として知覚すること
そういうことであるので
私の内部であるもの全て
即ち全ての知覚されるもの、知覚主体
全ての記憶されているもの、記憶している記憶主体
全ての体験されているもの、及び体験主体
全ての経験されたもの、及び経験
全ての思考、全ての感情、全ての想念、全ての知識、全ての行為
輪廻転生しているもの
はマインドである、記憶である
それは
「見るものは見られるものである」であるところの、非個人であるところの観照者ではない
それは
知覚されない、体験されない、思考されない、推測されない、想像されないところの
この「マインドという意識」を支えている意識ではない、「意識の座」ではない、鏡ではない
「意識の座」、「鏡」は意識されない、知覚されない、体験されない、思考されない、推測されない、想像されない