「真のわたし」以外の私と、「真のわたし」を同一視してはいけない


ラマナ・マハリシはこのようなことを言われている

私は「真の私」であり、神だと“思うこと”を止めなさい
『「真の私」以外の「私」』が“思うこと”は全て拒絶しなさい、その“思うこと”自体が真の私ではない、


これは
真の私は、「思うというマインド」によってではなく
または在ると「思う」事ではなく、想像することではなく
在ることという“気づき“の中に在る
ということを強調されたのだと思われます

これに反して
或る方は「私は誰ですか」の問いに、答えて「貴方は糞尿です」と答えたそうである

私は糞尿だろうか?
そうだろうか?
勿論、その見方もできる
しかし、そう言われて
その言われた方が「そうか、私は自分とは知覚を超えた、認識を超えた、未知なる、知ることを超えたものが、真の私であり、現在の知覚された、認識された、この私は私ではないのだ」と

そのように、その方は受け取ればいいのだが、
そのまま単純に受け取ってしまう危険性もある
であるので、私は
糞尿の自己と真の私を同一視することを拒絶する
私の全ての「知覚可能な内部の私」並びに、知覚される対象である「私」と未知なる「真の私」を同一化することをである
その「知覚し、される私」が内部と外部に分割し、自分と世界の分離を認識しているのだ、世界を誤って認識しているのだ、外部として、
そして虚偽の自己を内部に

だから
この「私」は「真の私」ではない

真の私は、思われる対象や思う主体、思考し感情する主体ではないということだ

思っていることの対象として、内部に知覚されている自分、更にそれを認識している自分、その主体は「真の私」ではない、

真我が心というマインドに接触することによって発生し、機能している想念の束が自我(エゴ)という根本の想念である、とラマナ・マハリシは言われる

その思うこと自体が、「こころ」それ自体の二元性である働きであり、その二元性こそ真の私ではないものであり、自己探求の道具ではない


「真の私」は自分が知覚する主体や客体である対象ではない

自分が対象として知覚する「心としての自分」は、確かに「自分は糞尿である」様に見える

しかしそれは「見るものは見られるものである」を二元性の立場から解釈したものである

本来は「見るものは見られるものである」とは、内部は外部ということであり、他人である貴方は私そのものであり
嫌いな上司や隣人や、全ての他人は私自身であると言うことである、世界は私であると言うことだ

この「気づきという宇宙意識である真の私」は
二元性である「心・意識」という状態を超えた非分離性、非二元性そのものの状態であり
その「見るものは見られるものである」という「見る」なかには
本当のあるがままのもの
すなわち絶対なる存在・真我が顕現していること
内部と外部の分離なく

見ている自我(エゴ)という観察者はおらず
見る者は見られる者である状態
他人は即、自分である状態
全ての人は自分自身である状態
非二元性の眼・それ自体
内部は外部である状態
非分離性の状態、宇宙に遍在している状態
生命の全体性の状態
気づきと言われる意識状態、又は宇宙意識と言われる統合の絶対の意識状態
それこそ、そこは
見る者も見られる者もひとつなる絶対なる存在であり、それ自体の絶対なる神である真の私、真我しかいない
その絶対なる存在の意識そのもの、真の私、
時間と空間を超え、全てが内在している状態
それが本当の真の私である
ということである、とおもわれる

であるので
現在の私達の意識状態・レベルでの「知覚する」ということは
その知覚していること自体が、知覚という対象と主体の分離を引き起こし、その結果、その知覚自体の中に恐怖と悲しみと憎しみが内在している
知覚する主体であるわたしも、知覚される対象である客体のわたしも、それは真の私ではない
知覚自体そのものが二元性であり、その中には非二元性、非分離性はない
その知覚の中には、いのちの全体性はない
その知覚の中には自分と他人、自分と世界、自分と宇宙、それら自分と外部の区別、
そして善と悪、光と闇、正義と不義がある、高級と低級、上級と初級、進化と退化などの分裂、分離がある

それらは全て私ではない、真の私ではない
それらは私ではないものである
それらの思考などは私を覆っているものである

と、そのように覚者の方々は揃って言明されておられる

であるので、この覚者の方々に従って、私には以下のように思われる

“真の私は欲望ではない”
この認識される欲望は、肉体や身体との自己同一視、自分を肉体や身体そのものであると過って知覚し、錯覚した結果生じた、「マインドの心」のものであり
欲望する主体と、欲望される対象、実現される対象を必要としており、その区別という分離感から錯覚として起きたものである
その欲望自体が、真の私ではない
錯覚から生じたものである



“真の私は糞尿ではない”
糞尿は私に知覚されるところの「対象としての自己」である、そしてそれはまた、それを知覚している「主体としての自己」でもある
それは「真の私であり、観照者である意識の座」に去来する、ひとつの想念であり、その想念が自己という意識、自我(エゴ)意識そのものであり、それらの想念の固まりに過ぎない、
それを私自身だと思うことは、全くの「自分ではないもの」との自己同一化に陥るものである

従って
私は糞尿ではない、知覚し、認識される自己であるもの、またその主体は確かに糞尿のように思われるかもしれない
しかしその思うこと自体が思考であり
思考するものも、思考されるものである対象としての自己も、真の私ではない、
その糞尿の正体は想念の固まりに過ぎない
糞尿である自我(エゴ)は想念だ

なので
真の私はその知覚という意識の範疇にはない
私は糞尿ではない
そのように真の私と、自分の対象である客体としての自己を、同一視することは絶対に拒絶すべきである



“真の私は思われる対象ではない、思う主体ではない”
その、思うこと自体が、二元性であり、「思う」ということ自体の中に、思う思考主体と思われる対象である客体という、二元性を生みだし、分離が生じる
真の私は思うことの主体でもなく、思われることの対象・客体でもない
真の私は思考や感情、その記憶の主体でもないし、対象でもない
真の私はこの累積した記憶であるところの「その各生の記憶の継承である」輪廻転生している想念の固まりではない
真の私は思考や概念、観念、知識、考え、理性、知性、感情、欲望、恐怖、不安、憎悪という二元性の意識には理解できない、未知なるものである
真の私は思考や感情や、記憶、考え、知識という意識の範疇にはない


“真の私は知ることは出来ない”
知ること自身がマインドである意識を前提にしており
このマインドの意識は分離という二元性であるので
二元性のなかには真の私はない
従って、真の私は「知る」範疇にはない
「私は知らない」ということが正しい
私はこの意識の座に、認識されるところのそれらのもの
それらの、自分自身と錯覚される欲望、思考、同一化、身体や肉体との同一視、知覚を自分ではないと
ハッキリと拒絶する

それらは
私ではない
また真の私のものではない
真の私に所属しているものではない

それらは真の私の意識の座に「去来しているところの私ではない」もの、である
それら私ではないと、拒絶する
私と同一視することを固く拒否する


“真の私は、知覚し、される主体の内部世界に、また知覚されることの外部世界のなかにはない”

真の私は
見ることという「思考のワーク」である「見る主体と見られる客体の分離」
この条件付けられた頭脳を経由しているレベルでの、分離意識での見ることの中には
存在していない


“真の私はこの「私が経験する事」の中には存在しない”
経験と言うこと自体が
経験者という主体と、経験される事という二元性を前提にしている
真の経験は
経験する経験者と、経験される対象という分離は存在しない
従って、前世という記憶をいくら辿っても、そこには解放はない
辿るところの「自我(エゴ)」がいるからだ



“真の私は、この私が観察することの中には存在しない”
観察すること自体が
観察される主体と、観察される対象というマインドの分離を内在しており
非分離性という真の私では全くないからである



“真の私は、この私が体験することの中には存在しない”
体験すること自体が
体験する主体と、体験していることという「マインドの分離」を内在しており
真の体験ではない
真の体験とは非二元性であり、自他の分離を微塵も含まない、全ての貴方は私そのものであり、私は世界そのもの
私は宇宙そのものである、という体験である
従って
これらの分離意識の範疇での体験は、体験者と体験している状態という自他の分離を含んでおり
真の私の体験では全くないからである



“真の私・真我は思うこと、考えることではない”
思うこと、考えること自体が
思う主体と思われる客体という二元性の意識である
考えること自体が時間と空間という分離性そのものである
真我は、そのような思うことや考えること、想像することや、思念することの範疇にはない
真我は普遍、絶対、完全、永遠であり、それを考えること、思うこと想像すること、知ること自体ができない
真我はマインドではない、在ることであると言われる
真我は沈黙であると言われている
しかもマインドや心や思考や想像が創り出した沈黙ではない
気づきの沈黙であると言われている



“真の私は意識の範疇にはない、真の私を意識することは出来ない”
意識は頭脳を介在して、やってくるもの
顕在意識(現在意識)・潜在意識(夢の意識)・無意識(集合意識)などで構成されているといわれている
それらは
全て二元性と分離性を根幹としており
真の私である非分離性、非二元性、非対象である「気づき」という意識ではない
前述の意識は「見るものは見られるものである」ではなく見る者と見られる者という
主体と客体の分離を前提にしており、この範疇にあり
この範疇外の真の私である「気づき」には触れることが出来ない


“真の私は知られる事は出来ない”
知ること自体が
知るものと知ること、という二元性の記憶のうえに成り立っている構造であり、知覚を介在させている
知ること自体が分離性であり、記憶や知識を媒体にしており
それらでは
真の私は理解できない
真の私は「見るものは見られるものである」のなかに、「気づき」のなかに在る
真の私は真の私そのものである非分離性のなかに在る、沈黙の中に在ると言われている、
自我(エゴ)の終焉の中に実現すると言われている

真の私は在る

愛そのものとして、

今ここに、既に在る

とそのように
上江洲義秀先生は言われる
ラマナ・マハリシは言われる

真の私、真我は既に探さなくても、既にいまここに在るといわれる
だから
真の私、真我を覆っているもの、それらの
欲望や恐怖や憎悪や不安や、思考や感情や、知識や、記憶など
自分の知覚し、想像し、感じ、体感されるもの
思い、考え、感情など
把握し認識されるものと決して同一化してはいけない
たとえ
それらが
この物質界よりは、より精妙で、より霊妙ではあっても
自他の分離が在る限りは、それは錯覚に過ぎない

私たちは
本当の真の私自体に目を心を存在を向けるべきである
思考を使わずに、全注意を向けるべきである
それは
沈黙の中に
存在すること
これがワークである
そして、真の私は「今ここに」
既に存在している
と言われる






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