大明知について
ラーマクリシュナはこのように言っている
大明知(ヴィジュニャーナ)について
無知とは:神を見ずに世界だけを見ることは、無知(アジュニャーナ)である、
明知とは:世界を見ずに神だけを見ることは、一種の哲学的知識(ジュニャーナ)である
(注:この世は映画であり、スクリーンに映し出されている映像に過ぎないと、
誰も何人も行為していないのであると、何も起こっていないと、観照して
いることは、まだこの明知の段階に過ぎない)
大明知とは:神のこころで満たされているあらゆる生きとし生けるものを見ることは、至高の
智慧(ヴイジュニャーナ)である
(注:行為しているものは根源であり、神であり、行為の責任は行為していると思っている
個人にあるが、その個人とはただ一つなる神が個人として演技しているといわ
れている)
大明知について
ブラフマンの「明知を超えた認識」があります。
明知の上は大明知です。
明知に目覚めた人には無知もあります。無知も明知も、二つとも捨てなければならないのです。
分かりますか、光の知識(認識・意識)の有る人には闇の知識(認識・意識)もあります。
徳に気づいている人には、悪徳にも気づいています。
清らかさを知っている人は、汚れについても知っております。
自分についての意識のある人は、相手についての意識もあります。
大明知とはあのお方を特別に知る事です
あのお方が、世界と生きとし生けるものになっておられるのを、それを見るのが大明知と言われるものです。
神のみが実体で、そしてその他の全ては実体のないものです。
遍在者の形であのお方はあらゆるものの中におられますが、しかし力の表れには違いがあります。
ある時は明知の力が、あるところには無知の力が、あるところには大きな力が、あるところには少しの力が。
見えませんか
誰が瞑想し、また誰を瞑想するのでしょうか
あのお方が自ら、生き物、宇宙、それら全ての者になっておられる。
瞑想している者も、それもあのお方である
更には、あのお方がさせるのでなければ、何も出来ないものです。
あのお方(神)が瞑想させて下さることによって、人は瞑想することが出来るのです
綺麗、汚いを区別する意識は無く、正常と不浄なものが一つになっているのです。
「貴方と、あなたのもの」それが明知です。
「私、そして私のもの」それが無知です。
「おお神よ、あなたが行為者で、わたしはその道具(非行為者)」それが明知です。
おお神よ、全ては貴方のもの-身体、こころ、家、家族、生き物、宇宙
−それらはすべてあなたのもの、私のものはなにもありません−それが明知というものです
中位の信者は、「神は、全ての生き物の中に、意識の形で、生気として、存在している」といます。
上位の信者は「神ご自身が、全てのものになっておられる。見るもの全てが、一つ一つ神の姿である」といいます。
あのお方自身が、幻影、生き物、宇宙、それら全てになっておられるのです
−あのお方以外に何も存在しません。
あのお方こそが行為者であって、人間の姿自体は道具です。
そしてまた行為は間違いなく結果をもたらします。
唐辛子を食べたのなら胃が焼けるようになるでしょう。罪を犯せばその結果を受けなければなりません
(注:人は行為していると思っており、行為していると思っている個人・自分に行為の責任がありますが
その個人・私とは神の道具です)
しかし目的を達成した人、神を見た人は罪を犯すことは出来ません
真実の智慧にあるとき「それ・ブラフマンは私である」と感じる事が出来ます。
丁度そのように、智慧の道、推理識別の道を行くのなら、神の姿を見ることはもうありません。
そして、全ては形のないものです。
智慧の太陽が昇ることによって形のある水は溶けてしまったのですから
さらに良く見る事です、
形のないものであるそれが、実は形のあるものです
〈注:さらに、否定的接近であるネティネティの道を歩んでいる方々に対して〉
否定によっても、制約のない精神(意識)が得られ、
肯定によっても制約のない精神が得られます
肯定という信仰の道が一つあります、そして否定の過程を辿る道も一つあります
あなた方は否定の道の話をしています。
しかしそれは非常に困難な状態であって、師匠と弟子の関係を見ることはありません
(注:クリシュナムルティーの道は否定の道であって、クリシュナムルティーの書籍から見る限りは
グルと弟子の関係を否定している彼の方法は非常に困難であると言うこと)