自分のものなど何もない
自分のものが一体あるのだろうか
肉体は私のものではない。
こんなに素晴らしい最高傑作は私たる自分が生み出したものではない、
たまたま私が動かせるからじぶんのものと思っているだけで、
実際には
私に肉体がやってきてそして私から肉体が去っていく
しかしその肉体は、暑さ寒さ病気やら、欲望やら
色々肉体としての注文を、私に言ってくるがそれは私ではない。
さて私と言っているが、この自分である私は私のものだろうか、
自分の思考は私のものだろうか、
この感情は私のものだろうか、
この私の経済状態は私のものだろうか、
この肉体の状況は私のものだろうか、
この家庭環境やこの家族関係は私が作ったのであろうか、
この仕事の失敗と成功は私が作り出したのであろうか、
それとも
それら全ては外部からやってきたのではないだろうか、
それらは
すべて何一つ私のものではない
何一つ私のものはない
第一
この私自身が私のものではない
その私のものといっている私とは一体何なのか
この私の環境や肉体や内面や性格や思考や記憶も含めて全てのものは
自分にやってきた
外部から
この認識、この知覚、この思考、この感情、この想念、この環境、
この仕事、この肉体、この二元性
はやってきたものだ
であるので
全ては私のものではない、私の生み出したものではない
この私という二元性と分離性の責任は私ではない
第一
この私とは、その二元性であり、分離性そのものなのだから
その根源的想念である二元性と分離性からこの人格・私は生まれ
そしてここに実存している
そのようにして
この二元性、分離性の私は生まれ、現在、実存しているのだ、
すべては創作されたのだ、二元性と分離性を伴って
これは
私の責任ではない
私を作ったのはその未知なるものであり、
それが全てをコントロールしているものだ
そしてこの二元性、分離性である人格・自分は
完全なる全体性があるからこそ生まれたのだ
この人格・私は自分の責任ではない
私は完全なるロボットに過ぎない
これを理解することは非常に難しく
見ることが、そこからの距離を作り出す
このロボットが悟りを願い、覚醒を願っている
しかし
悟りを願うこと、覚醒を願うこと自体が
ロボットの思考回路から生まれたものに過ぎない
悟りの覚醒の中身はロボットにとって未知なるものだ
これらの願望はこのロボットの思考回路から生まれた
思考そのものであるに過ぎない……。
覚者は言う
悟りや覚醒は
「今ここ」にあるという
時間を超えて遍在しているという
願望や欲望とは関係なく、
既に「今ここ」あるという
しかし「今ここ」は
ロボットには知ることも、推測することも、想像することも、
思うことも、考えることも、感じることも、
経験することも、体験することも出来ない
何故なら
知ること、
推測すること、
想像すること
、思うこと、
考えること、
感じること、
経験すること、
体験することこそロボットそのものの機能であるからだ
覚者は言う
真我である全体性、非二元性、そして「今ここ」は
知ること、推測すること、想像すること、思うこと、考えること、感じること、経験すること、体験することでは理解できないと
その真我であり「今ここ」は
見たり、知ったり、願ったり、希望したりでは
参入できない
それは「在る」事が出来るだけだという
それは獲得したり
悟ったり
達成したりすることではない
既に「在る」事なのだと
逆に
それらのロボットの機能である
知ること、推測すること、想像すること、思うこと、考えること、感じること、経験すること、体験することなどが働いている間は、
その「今ここ」に触れることは出来ない
ロボットが沈黙すること
そして
沈黙そのものの到来
完全なる沈黙
そのロボット機能の完全なる停止
この訪れが絶対条件であるという
しかしこれを願うことは
ロボットである私の機能であり、かえって
その到来の邪魔をするとも言われる
だから
何もしない
そもそも
何も出来ない
願うことも、希求することも出来ない
覚者はいう
「時間は敵」だと
その時間が崩壊するのだと
時間が停止するのだと
そしてその時間が作り出した根源的想念である
二元性の私が崩壊するのだと
しかしそれ以降の二元性を超えた状態のことは
推測することや想像することすらできない
推測や想像すること自体がロボットの機能だからだ
しかし覚者は言う
その非分離性・真我・「今ここ」の状態は
完全な祝福、完全なる喜び、完全なる愛そのものであると
こここそ
主体と客体の分離が終焉した、自我の終焉であり完璧の世界であると