内部は外部である


ニサルガダッタ・マハラジのいう
内部は外部である、は素晴らしい言葉だと思う

私達が内部で発見できるもの
それは
全て外部からやってくる

内部は外部である
内界で知覚認識できるものはすべて真の私ではない

それら内界にあるものは
全てマインドから、想念帯から、やってくる
全て根本の設計図からやってくる
全てたまゆらという曼荼羅様の魂の設計図を通過してやってくる
全ては更にその奥の現象界を司る根源からやってくる

しかし
私にやってきて私自身と錯覚されている
それは私にやってくるマインドであって

私ではない

私達には自由意志がなく、全ての思考と感情と知覚と出来事は「私と錯覚されて」外部からやってくるという
同じように
行為は私たちが行っているのではなく起きているという
それを自分が行為していると錯覚するようにプログラムされているという

だからこそ
私達のこの人生とこの、「今現在ここで息して物質界に生存している人格としてのこの個人の私」は
真の私、とは関係がないのだ

この肉体を動かし
この回りで起こっていることは
全て、やってきているのであり
設計図通りの筋書きであり

私が生きているのでなく
私が動いているのでもない
この人生は私の人生ではない

立ち止まって考えてみよう

この私という個人の人格も、この内部にやってくるものも

私ではない

個人の人格とは、感覚が制限されている故に肉体と真の私を間違って同一視した結果生じた概念である

だからこそ
発想を変えて

私はそれらの私ではないところの、思考や感情や知覚や出来事から離れる事は出来る
なぜならやってくるものは、全て二元性、分離性という偽の私であり、苦しみと恐怖と悲しみがその中身の正体なのだ
これがやってくるマインドの本当の中身であり
私たちにやってくるものの思考と感情と行為の中身である
それが「私」という錯覚を私に与えているのだ

だからこそ

私はそのやってくるマインドと自己同一化はしない

たとえ、現在の私が如何に低レベルでも
私は、自由意志が存在しないこの、状況でも、
やってくるマインド、現象界を司る根源から設計図に従ってこの意識にやってくるものと、自分を自己同一化しない

私は私ではない、

それらの認識している主体のマインドも対象として認識されるマインド達からも私は離れる、

離れることは出来る、だから離れるのだ、
だがしかし離れるものもマインドだ、自我だ
真に離れることが出来るのはやってこなければならないが

それでも、あえて

私は自己同一化しない、
それらのやってきている何万年という私(仮称ハイヤーセルフ・永遠の自己)とは私ではない

私はそして真の私である「わたし I AM」であると、
私が信じているものへ向かう
全力で向かう、必死で向かう

それこそが真の私
「I AM」、
愛、真実の愛、絶対なるもの
非二元性、私が認識できないもの
私にとって未知であるもの
そして、真の私であるもの

そのようであるので
私にとっては、自由意志もなく、行為することはできない状況ではあっても、それでも

その自由意志のない状態で、行為が出来ない状態で
私は意志する、
行為する
愛を、分かち合う愛を、無限に与える愛を意志し、それを与えることを意志し行為する

話はずれるが
私にはこの人類によって汚された愛という言葉、神という言葉を使いたくない
神と言う言葉こそ、最もこの地球で汚された言葉だとおもう、
だから
もっとハッキリとその至高なる非二元性を示す言葉が無いのだろうか

これからの地球には、だから言葉ではなく
もっと厳密に真のその非二元性、全体性、真の絶対なるものを示す状態が言葉を使わず、存在することだろう

話は戻るが

私は
現象界の根源からやってくるその意識するものとされるもの、私という個人の自我の感覚、
思考と感情と知覚と認識、それらは「私では無い」と深く思う

それは、それらのマインドとはその根源がこの現象界を支え、運営するための使用しているものなのだ、
この個人や人格は、またもっと深い自己の感覚も本来は存在しないのに
現象界で使われるために肉体や諸体とともに錯覚として与えられたのだ

そして、その根源が神と悪魔、天使を使っているのかもしれない
この現象界を回すために
破壊と創造のために

その根源なるものが
真我から生まれた最初の想念である・仮称ハイヤーセルフなるものを使って
輪廻転生の主体とさせ
この私達の根本設計図を書かせ、二元性と分離性という 知覚と記憶と思考と感情が媒体となり
この現象界という錯覚を
持続させている

そしてその結果
それによって私達は個人という錯覚を与えられ

肉体と同一化し

在りもしない自分という錯覚の幻想で現象界の人生ドラマを生きている

しかし
私は、
それらの作られた偽の私、偽の人生、それらやってくる私ではない、

それらと自己同一化しない

私はそれではない、と信じる

逆に
本当の「それ」とは
私は「それ」である(I AM THAT)というところの非二元性そのものであって

根源からの思考や感情や知覚、体験、この世界のそれは
私達にやってくるそれである

しかし
真の「それ」は未知なるもので、非二元性のなかに現れる「それ」である

だから上江洲義秀先生の言われる
「自由意志を使って努力しなさいよ!!」も
同じ真の私、真我・アートマンからの言葉なのである

それは、この現象界のマインドからの言葉ではない

この目が開くことのできない、盲の私達にとってはそれしか方法がないのである

私達が自由意志がないので、
その現象界を支え運営している根源から自分にやってくるマインドを自分自身と錯覚してしまうのだ

だから、あえて上江洲義秀先生は
その同一化をさせないために
「自由意志を使って努力しなさいよ!!」と言われるのだ

私は自由意志がない

しかし
私には、私にやってくるマインド
それらの
私に認識されるもの
私に知覚されるもの
私に体験できるもの
「私と錯覚されてしまう、これらの知覚や思考や感情や意識」たちと
それら自由意志たちと、行為と自己同一化は出来ない

私は内部で発見されるそれらは、自分ではないと思う

ゆえに

内部は外部である

私は自由を持って、
自分ではないものへ

愛の中へ、進んでいく

そう生きていきたい









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