非二元性への旅立ち
(非二元性と二元性への考察、その1)

非二元性は全体性である

非二元性は分離していない

非二元性は「見るものは見られるものである」である

非二元性は「外部は内部であり、内部は外部である」である

非二元性は主体と客体という二元性を超越する

非二元性は主体と客体の消滅を意味する

非二元性は主体と客体の区別・分離を超越する、だから「見るものは見られるものである」

非二元性は自他の分離、我と汝の分離、神と私の分離を解消する

非二元性は本当の愛である

非二元性は本当の神である

非二元性は本当の私である、従って「私という分離した自己」は存在していない

   観察者・思考者・見る者・経験者・体験者・知覚者・輪廻転生している主体

   記憶・感情・概念・欲望・想念・経験・体験・認識・五感・知覚・個人

   そして主体そのもの、それらは非二元性には存在していない

非二元性は未知なるものである

   それらは知覚できない、体験できない、把握できない、認識できない

   なぜなら知覚も、体験も、把握も、認識も二元性であり、知覚し、体験し

   把握し、認識すること自体が主体の存在の上に成り立っており、主体という

   二元性が存在しないとき、それらは存在できないからである

非二元性は二元性である概念や思考や想念や知識や情報では接近できない

   なぜなら概念や思考や想念や知識や情報そのものが、内部と外部、主体と客体という大前提

の上に成り立っているものであり、内部は外部であり、主体は即客体である、という非二元

性そのものを、上記のこれら思考等は全く理解できない

   概念や思考や想念や知識や体験や知覚や情報そのものが二元性であるからである

   二元性は非二元性を全く理解できない、頭脳やそれらの二元性では非二元性を理解できない

二元性があるとき、そこに主体と客体が生じる

従って、そこに見る者が生まれ、見られるもの・対象が生まれる

       従って、そこに内部と外部の区別が生まれ、知覚し体験する主体が生まれる

二元性があるとき、そこに主体が生まれ、そして時間が生じる

二元性があるとき、そこに主体が生まれ、そして輪廻転生がある

二元性があるとき、そこに見る者、観察者、体験者、思考者、知覚者、体験者が生じる

二元性があるとき、そこに肉体というものが生まれ、諸体が生まれ、家族が生まれ、世界が生まれ、
       
       宇宙が生まれ、内部や外部にある神が生じた

二元性があるとき、そこに主体が生まれ、そして思考が生まれる

二元性があるとき、そこに思考が生まれ、そして主体が生まれた

二元性があるとき、そこに主体が生まれ、そして感情が生まれた

二元性があるとき、そこに感情が生まれ、そして主体が生まれた

二元性があるとき、そこに分離が生まれ、そして区別が生まれ、選択が生まれ、判断が生まれ、
      
       非難が生まれ、差別が生まれ、優劣が生まれ、優越感と劣等感が生まれ、高慢が生まれ
     
       自己関心が生まれ、無関心が生まれ、嫉妬心が生まれ、憎しみが生まれ、善悪が生まれ

       光と闇が生まれ、不安が生まれ、恐怖が生まれ、防護が防衛が生まれ、

       そして攻撃が生まれる、暴力が生まれる、カルマが生まれる

二元性があるとき、そこに信仰が生まれる、信仰の中には不信がある、信仰ではなく理解が、

不信ではなく真の体験が、その信仰や不信に取って代わるべきである

二元性がないとき、自己はない

二元性がないとき、世界はない、宇宙はない

二元性がないとき、恐怖は無い

二元性がないとき、内部や外部に現れる二元性の神はない

二元性がないとき、思考はない

二元性がないとき、感情はない

二元性がないとき、既知なるものはない

二元性がないとき、そこには招かれもしないのに非二元性がある

二元性がないとき、そこには二元性を超えた愛がある

二元性がないとき、そこには二元性を超えた平安がある

二元性がないとき、そこには二元性を超えた歓喜がある

二元性がないとき、そこには二元性を超えた存在がある

二元性がないとき、そこには二元性を超えた沈黙がある

二元性がないとき、そこには二元性を超えた神のみがある

二元性がないとき、そこには二元性を超えた遍満、普遍、絶対、完全がある

二元性がないとき、そこには二元性を超えた無限がある                                                                 

二元性がないとき、そこには二元性を超えたワンネス・一命一体がある


二元性がないとき、そこには二元性を超えた真我がある



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