八正道・上江洲義秀先生の妥当性
カルキはクリシュナムルティーを指して、彼は最初から、まず思考からの解放があって
自分の体験から「あるがままをあるがままに見よ、但し見る主体無く」「見るものは見られるものである」と、言ったのであり、彼の悟りの状態を我々凡人に向かって話しているという。
また
ラマナ・マハルシに関しても、彼は最初に「死の体験、そして神我の体験」があり、それで有名な「私は誰か」が
起こったのであり、彼の体験から、その状態を凡人である私達に話していて
我々凡人には、その解放へのアプローチは適合出来ないという。
カルキは言う、
まず最初にその為には、覚醒が必要で、その覚醒の後に、クリシュナムルティーやラマナ・マハルシの言葉に従うことが出来て
実践できるのだ、という。
彼らは最初に覚醒が起こったのであり、だから彼らの「思考を見る」ひとつでも、そのことを理解するためには、その前提条件として、悟りを開いている必要があるという。
そこでカルキは、
その悟りとは、具体的には濾過器である肉体脳の手術をあげており、その手術が新たなる回路を開くという、そしてその仕事を行うのが有名な「ゴールデンボール」であるという。
また、上江洲義秀先生ではあるが
カルキとは方法論が違って、次のようにそのアプローチを示している
即ち
瞑想の中において神我が(またグルが)マインドにこびり付いている、「それ」(それは自分という個人では取り除くことが不可能なものの総称)を恩寵によって取り除くという
同じようなことはニサルガダッタ・マハラジにおいても言われている、
ニサルガダッタ・マハラジは、弟子から「どうしてあなたは覚醒できたのですか」との問いに、答えて、ニサルガダッタ・マハラジのグルへの絶対の信頼と帰依を挙げている、
このニサルガダッタ・マハラジの誠実で真摯な人間性と全託の純粋性が解放をもたらしたものと思われる。
ともかくもクリシュナムルティーやラマナ・マハルシは自分の体験を話しているが、我々からすれば、彼らを理解する為には、我々にはその前の段階が欠けていると言うことになる。
自己のマインドを本当に「無思考の状態」で「見ること」がクリシュナムルティーの「見」であるが、その状態は脳の変換の後の状態であることを認識する必要がある。
だからまず「見ること」が起こる前に、自分の脳に変換が起きなくてはならないと思う。
それがディクシャであるにせよ、瞑想での神我からの助けであるにせよ、グル(神我)への真心からの全託であるにせよ、それにより自分の脳内での変換が前提条件であるといえる。
その前提条件は煎じ詰めれば、内なる神我への絶対の信頼に尽きるのでないだろうか。
上江洲義秀先生もニサルガダッタ・マハラジもそのようにして解放が訪れたのではないだろうか。
では、自分の中の葛藤に関するアプローチであるが
クリシュナムルティーの葛藤を「あるがままをあるがままに見る」はどうなるのか、その答えは、それはその状態であるためには脳内の変換が必要であり、それが無ければその葛藤を「見ること」は出来ないと言うことになる。
実人生の、諸々のこの葛藤を真の意味で「自己観察」して、その「見る」ことで解消する事が、起きる前の段階では、
即ち私達のように葛藤に捉えられている状態では、
勿論、真に意味の、無思考による「自己観察」も出来ないし、「自己を見る」ということも起こらない、
こういう状態にあるところの私達の出発点では、
その葛藤に対して、八正道という、自己の努力を促す方法しかない、というのが私の見解である。
マインドを超えることが出来ない、マインドに被われている状態の中での葛藤へのアプローチは、古典的な仏陀の八正道に戻り、
“神我であるならどうするか”、神我の模倣、自我が、マインドが考えた“神我らしい”「真似る行動パターン」を、幼稚園児のように、行うしか方法は無いと思う。
自分の現在の意識が、その中身であり、構成物であるマインドを超えることが出来ず、
その結果に、その葛藤に捉えられてしまい、自己同一化して、その葛藤そのものとして生きるよりは、
自分が葛藤であることを意識しながら、その葛藤と自己同一化することなく、正しいと思いこんだ道、八正道を模倣する方が、よりベターである、これが次善の方法である、とそう思われる。
自分の構造上、自分はマインドであり、葛藤そのものである以上、思うこと、や行うことは、
必ず世に害悪を流すことは、必然であるからして、
消極的な意味として、八正道を行い、世のため、人のため、そして自分のためにも、
この「模倣である八正道」を行うことが求められるのではないだろうか。
勿論、
この行うという意味は外面的な肉体的な行動だけではなく、
内面的な意味での行動であるところの、思考や感情や想念もその八正道を行うことを指していることは勿論のことである。
積極的な「本当の八正道」は悟らなければ行えないと思う、
何故なら自分自身が葛藤であるからである、
従って、
現段階では、自分にとっては、どうしても偽善的な感じであっても、葛藤そのものになったりして、人々や自分に害悪を流したりすることのないためと言うことで、この八正道を消極的に行うことは、理にかなっていると思われる。
要するに
上江洲義秀先生のように、葛藤に陥りたくとも、内面にその葛藤がもう存在していないので、怒ることも、憎むことも出来ないという、レベルであるなら、行うことが、そしてその人の存在そのものが八正道である、そして、その人そのものが愛である以上、放つことは全て善であり
良きことをもたらすであろう。
しかし、私達は凡人である
そのような解放が、私達に訪れる前の段階として、真の「自己観察」も「あるがままを見る」こともできない状態のレベルでは、この次善的、模倣の八正道が求められるのではないだろうか。
即ち自己によるマインドのコントロール、自制である。
解放は真我からやってくる
解放は瞑想を通じて真我からやってくる
解放は真のグルを通じて恩寵としてやってくる
解放は内と外から同時に、やってくる
これは恩寵である。
ありがとうございます、
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