自己解体のプロセス(自己死滅のプロセス)
真の私を覆い隠している「自我(エゴ)としての私」の解体のプロセスとは一体如何なるものであろうか
「自我(エゴ)としての私」という、スクリーンを覆っている意識であるところのこの分離した意識に起こる「自己解体のプロセス」
とは、自己というプログラムに従って起こるものであるのだろうか
現在の意識している私達とはマインドである心という分離した意識であり、
真の私というスクリーンに投影されている意識・プログラムであり
このプログラムである意識が発生し、終焉することすらもがプログラム自体であるからには
自己解体のプロセスが発生し、それが起こらない限り、私達の「自我(エゴ)としての私」は終焉することはないだろう
それは起こる、「自我(エゴ)としての私」の努力もプログラムの一部であり、起きていることである
ではこの自己解体のプロセスがこの個体の意識に起こると言うことはどういうことであるのか
具体的にはどういう現象が起こるのであろうか
実際のこの「自我(エゴ)としての私」にどういう事が起きるのであろうか
以下の現象は恐らく、自己解体のプログラムが発動してくるに従って起きる具体的なものであると私は推測している
(この久保栄治というプログラムは未だその段階ではない)
■感覚のスローダウン 頭脳の条件付けが変わることによって、頭脳内の知覚領域の変革が実行され、その事によって
現在の感覚の知覚が改善される、そして
時間の経過が遅くなる、
ボールが止まって見える、
時計の針が静止して見える
人々や回りが停止して見える、感じる
視覚や聴覚やそれぞれゆっくりと感じられ、今までとは違って、静寂を感じるようになる
視覚や聴覚自体が気づかれスローダウンする
■自他の分離感の希薄化
自己関心や自己の名誉や罪悪感、劣等感や優越感と云う自己中心の思考が希薄になってくる
自分についての思考が忘却され、私は、私の、私がと言う発想が無くなる
「私であるあなた」というような感覚がより増大し、自他の分離感が徐々に希薄になるにつれて
他人の苦しみが自分のものとして感じられるようになってくる
具体的に他人の痛みを自分の痛みとして実際に感じるようになる、と同時に万物との一体感という
感覚が発生してくる
■身体感覚の拡大 今まで皮膚に依って限定されていた身体感覚が皮膚を超えて徐々に拡大していき、自分の身体が
木々や植物や動物や物質まで延長しているような感覚が発生してくる
また、自我を忘却することにより自己関心から徐々に解放され人々との一体感、動物や植物やものなど
との一体感が実際に感じ始められてくる
樹木と話したり、花と会話したりすることが可能になってくる
■記憶からの解放 物を作ったり、作業をしたり、仕事をしたり、生活をしたりする記憶ではなくて、心理的な自分という自我の
感覚を伴っている記憶が消失されはじめ、嫌なことや恥ずかしいことや罪悪等の記憶から解放されはじ
める
そして記憶である自我のことが全く自分ではないように感じ始められる
時間であり心である記憶から、すなわち自己から解放され、それによって自由の感覚が生じ始める
■思考からの解放 分離と二元である思考、知識と自我そのものである思考から、徐々に解放されはじめる結果、物事を考え
たり類推したり、知性を使って認識する低次な認識方法から、より高次な心や思考の何倍ものスピードと
容量を持ち時間や空間に縛られない認識形式である「気づき」「直観」「高次意識・非分離意識」が働き出す
要するに考えるのではなく直接に全てを完全に全体的に理解してしまう事が起き始める
それに伴い思考をハッキリと見る事が可能になり、思考の形や組成や仕組みが鮮明になってきて
思考や欲望をハッキリと直視できるようになってくる(気づきの発生である)
■万物からの認証 万物との一体感ということが自己忘却から生まれることにより、万物と自分が分離していないと言う実感が生
まれはじめる
それにより、絶対的に「これで良いのだ」、と言う盤石の確信が発生する
万物から絶対的に認められている、という確証が与えられてくる
この境域に於いてはじめて功利的ではない本当の「ありがとうございます」が言える事が出来るようになる
■時間領域の変容、時間の解体
常にマインド・心・思考・自己という錯覚物は時間の中でしか生きることができない
過去も未来も現在も「今」ではなく、マインドが生み出した映像に過ぎないと言うことが実感として感じられ
てくる、時間は私ではないと思えてくる
過去や未来が確定しておらず、流動的にあり、平行して同時に「今」に存在しているということの体験が起こ
り始める
時間はマインドであり、自我であり、この映像を映している本体であるマーヤそのものであり、非実在であり
真の私では無い、この本来は存在していないと言われていることを証明する体験が起こる
なること、到達すること、真の私に到ることは時間の虚偽であり、実際は既に私は真の私であり真我である
と云われる所以である
■疑似空間領域の解体
この空間は時間と同じように、マーヤが頭脳を経由してマインドが生み出した、偽の私の創作物であり
脳内マトリックスである
三次元空間という物は実際は頭脳から投影されている、脳内の空間であり客観的なものではない
私達の共同幻想によって現実の空間と称されている空間は真実の空ではなく、脳が生み出している投影物
である。この共同幻想は三次元太陽系内を支配しており、銀河系は三次元ではないと云われている
分離や人格や自我は時間であり幻想であると同じように、この自我が行為者として生きていると思っている
空間とは頭脳が生み出している疑似空間である
この確証と実感が発生してくると同時に、空間を超越すること、若しくは空間という虚構を超越する現象が
発生してくる、所謂テレパシーやテレポテーションであるが、この自己解体のプロセスの伸展に従い
地球の或る場所へのテレポテーションだったものが徐々に太陽系に進み、更に進化して銀河系にまで及ぶ
とされ、最終にはこのマインドの作り出した空間ではなくて、真実の「ここ・今」という時空間を超越した
真実の絶対超越次元においてあらゆる所に遍在しているという実感を持つとされている
■外部と内部という分離感の解消
この内部と外部という区別錯覚は肉体を自分であると錯覚しているマインド・心から発生しており
このマインド・心・時間が徐々に解体されはじめていくにしたがい、内部と外部の区別が薄らいでくる
外部は内部の投影であり、その内部とは私ではないもの、すなわち私と言うプログラムに過ぎない
このプログラムが外部として投影されているということが徐々に生活の中から実感されはじめてくる
肉体も出来事も運命も、家族も仕事も人間関係も内部を投影しているに過ぎないが、その内部とは私で
はなくこの個体に与えられているプログラムであり、真実の主体ではない。
主体と思うように設計されているプログラムである。私ではない。しかしその私ではない疑似主体も
真の私が存在しているから錯覚が起きることが出来ている
■「私は在る」という感覚の発生
私は在る、という実感を伴って何事にも動じることのない確証が内部で発生する
「自我(エゴ)としての私」ではない、真の私からの、真の魂からの存在感が実感として発生する
■あるがままを見ているという「見」の発生
クリシュナムルティーなどの云う、「ただ見る」という、思考ではない、個人を伴わない「見」が発生し
思考や感情や欲望を、ただ思考として、感情として、欲望として照見することが出来る
此処に於いて私は存在していなかった、私とは概念であったことが暴露される
私というこの個体のプログラムは肉体の頭脳に固く結ばれており、その私と言う個体のプログラムは真の私である主体を覆っ
ている、
そしてさらに頭脳を経由して共時的にやってくるマーヤ(根本頭脳)がプログラムと連動して作動している
この状態が現象世界、三千世界を構築し欲望と創造と破壊を支えているのではないだろうか
このプログラムの私とは私ではなく、私と想い、意識し、錯覚し、自分を肉体であると思っている
しかし、いつの日にか、この私と思い込んでいる偽の主体であるこのプログラムが真の私によって発動されて
このプログラムによって自己解体のプロセスが開始されることだろう
しかしその実際の自己解体のプログラムにも関わらず、この意識し意識されている私とは実際はプログラムであり
そのプログラムの結果でしかない、
と言うよりもこの私とは私ではなく、この意識も本当の意識ではない、思考でしかない
何故なら
私の見る事、考えること、認識も、体験も、知覚も見る者と見られるものとに分離しており、分離していること自体が虚偽である
からである、思考の性質である
真の私であるなら「見るものは見られるものである」からであり、時間や空間という分離する認識形式ではないからである
真の私であるなら「見るものは見られるものである」であり、今此処にあるがままにあり、全ては一つであることのなかに
愛の中にあるからである
従って、この私は私ではない、プログラムであり、マーヤの一部なのである
そして、このマーヤこそは真の私が生み出したもの「非実在」である
実在が非実在を生み出して支えているのだ、と教えられている
私が私ではない個人というプログラムを生みだし支えているのだと