魂の境位・意識・波動のレベル状態は結果である
原因が結果を起こしている
肉体は結果である
出来事は結果である
自我(エゴ)も結果である
自我(エゴ)の境位・この意識状態・魂の波動レベル状態も結果である
アセッションに備えて三体が調整させられていることも結果である
エルダーブラザーとのコンタクトも結果であり
テレパシーもテレポテーションができることも結果であり
進化も、そして退化も、結果である。
立ち向かっている、私の目の前のこの人も結果であり
仕事がうまくいくことも、うまくいかないことも結果であり
神と出会うことも結果であり、出会わないことも結果である
健康も結果であり、病気も結果であり
誕生して肉体を纏うことも結果であり、肉体を去ることも結果である
お金が入ることも結果であり、損をすることも結果であり
宇宙船に乗って他の惑星に行くことも結果であり、そうでないことも結果である
良いことをすることも結果であり、悪いと思われていることをすることも結果である。
わき起こる考えも結果であり、どのような感情でも、体験でも発生することは結果であり、どのように願うかも結果である
勿論、自分がどういう状態であるか、どうなのかも、自分がどのようになるかも結果であり、この自我(エゴ)である私自身がそもそもの結果である
輪廻している私という記憶の塊そのものが結果である。起こっていることである。
では原因とはなんだろうか
現在の久保栄治のレベルとはマインドのレベルなので、これを言い表せないが
思考以上の存在である(即ち個人や人格ではない)「私」、括弧付きの私
これらの、現象界という結果を投影している「私」、というものが原因なのではないかと推測している。
この「私」は勿論、観照者や真我ではないと推測される。
真我や観照者と結果の間に在るもの、即ちプログラム・「原因」である。
この「原因」が
この自分というスクリーンに
即ち頭脳という受信器を通して
この現象界という映画を
この地球という惑星の映画を
この次元宇宙又は高次元宇宙という映画を
この時間という映画を
この空間という映画を
この外部という映画を
この内部という映画を
(この頭脳というスクリーンを通じてに)
映像を投影している。
このすべての大元が(原因が)「私」というところの第1想念とラマナ・マハリシによって言われているものではないか。
これは推測で間違っているかもしれないが、そのように聖者達が示唆しているように思われるのだ。
そして結果は原因が投影しているのだ。
頭脳を通過して、網膜や知覚器官を通じて記憶に、魂に、意識の座にそれを投影し、知覚させ、思考させ、体験させ、経験させ、認識させている。
内部と外部が分離しているように虚偽の認識をさせている。
自分と対象が分離しているように虚偽の認識をさせている。
私と、親や子供や上江洲義秀先生や全ての人、宇宙の方々が自分自身ではないと、虚偽の錯覚をさせている。
自分が認識しているこの憎しみや、高慢や、恐怖が自分自身ではなく、自分の認識している対象であると錯覚させている。
回りで起こっている争いや混乱、そしてアセンションのUFOやブラザーが自分とは別な存在であると錯覚させている。
出現している神や天使達が自分自身ではなくて、自分の目の前に現れている対象だと想像させている
自分が電車の乗って空間を移動していると錯覚させている
(多分UFOは移動しているのではなく、空間・次元を特定して出現しているのではないか)
これらは全てが投影していることかもしれない。
括弧付きの「私」が見る者と見られるものに、主体と対象に分離しているのである
(本当は「見るものは見られるものである」であり、主体は客体であり、私は存在しないのに)
だからこそ、真実とは
「見るものは見られるものである」
と言われている
私が世界であり
宇宙が私だと言われている
自分の目の前の悪魔は自分が投影している、それは私自身なのだ
自分の目の前の神は自分が投影している、それは私自身なのだ
自分の目の前の現象界の悲惨と暴力と恐怖は自分が投影している、それは私自身なのだ
自分の内部の憎しみは自分が投影している、それは私自身なのだ
自分の肉体は自分が投影している、それは私自身なのだ
自分という自我(エゴ)は自分が投影している、それは私自身なのだ
自分という輪廻している私は自分が投影している、それは私自身なのだ
自分の目の前の巨大な宇宙船は自分が投影している、それは私自身なのだ
自分の認識しているこの現実世界、三次元宇宙や出来事は全て自分が投影している、それは私自身なのだ
自分というプログラムは自分が設定している、それは私自身なのだ
自分の目の前のこの問題は、自分自身が投影しているのだ、それは私自身なのだ
従って
これらの結果は、全てが原因であるところの括弧付きの「私」が原因である。
これこそが
ラマナ・マハリシのいう第1想念そのものではないのか
そして
結果は原因が投影していることを正見するとき
(「見るものは見られるものである」を正見するとき)
結果は原因であり
原因は結果である。
ニサルガダッタ・マハラジは言う
見るものも見られるものもなく、ただ見るだけがあると
これはラマナ・マハリシの言う
この現象界の投影システムが看破されたとき
即ち
映画館の館内の照明が赤々と照らし出されて、このシステムが
全てが明らかになるように
実に強大なカラクリであった、
と言うことが分かるのかもしれない
そこには意識の座というスクリーンに現象界宇宙(内部と外部)が投影されていた映像は無く
現象界宇宙・次元宇宙を維持構成していた(それを投影していた括弧付きの私という)カラクリが明らかになる
と言うことかもしれない
それは括弧付きの私が上映していたのだった
その括弧付きの私が、プログラムというフィルムを使って
映しだしていたのだ
それがこの肉体であり、三体であり
この自我(エゴ)であり
このUFOであり、対象としてみられる外なる形体のブラザーであり
この出来事だったのだ
この括弧付きの私が、自分自身そのものを対象として認識していたのだった。
この括弧付きの私が自分自身を内部や外部として、内宇宙や外宇宙として、輪廻を繰り返す魂として、又多くの次元や幽界や霊界や、いろんな波動・レベルであるところのものとして、自分自身そのものを認識していたのだった。
それは真の私ではない、と言われる。
これは真我ではない、と言われる。
真我は
原因でも結果でもなく、
見るものでもなく、見られるものでもなく、
主体でもなく客体でもなく、
観察者でもなく
純粋な存在、
「見るものは見られるものである」の純粋な「見」そのものであるとニサルガダッタ・マハラジは言われている。
これを要約すると
三つの異なる段階があると思われる。
T:まず、見るものと見られるものとが別に存在していると錯覚している意識状態、三界という輪廻している地球と
他の惑星を含む現象世界とそれを二元的に分離認識している自分
それがマインドである。
このマインドは観察者という括弧付きの私によって使われているのだ。
U:次ぎに「見るものは見られるものである」の段階、
この意識状態は、久保栄治にとっては全くの未経験であり、未知なるものであり、思考を全く超えた意識レベルであり、明想によってでしか到達できない、存在状態である。思考がない状態の時に訪れる存在状態である。
更に本物の真我の状態があると真の聖者は示唆されている
V:これが見るものも見られるものも無く、ただ「見る」だけがあるとラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジなどによって言われている「存在・気づき」といわれる状態
この「今」には
既に時間もなく、空間もなく、宇宙もなく、私もなく、次元の相違もなく、見るものもなく、見られるものもなく
勿論、主体も客体もなく、観察している私もなく、観察されている対象である宇宙もない
存在だけがある。
とそのようにいわれているのではないだろうか。