花を見ている私は、その花そのものである(五感の再調整について)
目の前にある樹木や花を見るときに思考を介在させないで見てみよう
思考という分離性を介在しないで見てみよう、その花を
見ているときに思考が、その見ることに直ぐに介在してくることに拘泥しないで、ただ見てみよう
通常、見ているようで実は頭脳の条件付けが、動き出して見ているのであり、あるがままを見ているのではない
頭脳の条件付けが生み出した記憶という個人人格がそこの「見ること」に介在して、「見ること」を妨害している
だから真にその花を「見ている」のではなく、思考という条件付けの頭脳が生みだした「歪められた視覚」が見ることを狭めている、
見ているようで実は見ていない、と覚者達は口を揃えて言われる
上江洲義秀先生は私たちは盲目なのだと言われる
であるので、正しくは「見るものは見られるものである」であるのに、
見ている主体と、見られている対象が別々に存在していると仮想し「見て」しまっている
現在の人類の進化レベルでの、「視覚」とはその頭脳の条件付けを経由した状態を指しているので、
あるがままに「見るため」にはその色眼鏡を外すという作業が必要とされる
だから色眼鏡を付けないで「あるがまま」を見るようにしよう
「あるがままを見る」とは、勿論見られている対象とは、見ている主体であると直視することである
即ち見られているその花は、その昆虫は、それを見ている私自身である
という事であると思われる
であるので
その見ることの第一段階として
想念や思考を見ることを始める前に、美しい花や樹木を正しく見ることから始めよう、レッスンワンである
取捨選択や判断や眼球を動かさないで、その樹木と花々、流れる川を実際に見てみよう
内部に頭脳から生み出された人格の思考を介在させないで、「ただ見る」とき
実際に見ることとき、驚くべき事が起こると言われている
そのとき「見るものは見られるものである」と言われている、その見られている花は私であると言われている
私が見ているのではなく、見られるものは見るものであるという、注意だけがある
観察者無しに、眼球運動という思考の影響を一番受けやすいものを停止して、ただ注意して花を「見る」
その美しい花そのものを私自身として、対象化せずに、分離せずに「見る」
私はその見られている花そのものとして「見る」「感じる」
だから観察者無しの観察とは、思考を動かさず、取捨選択や判断や非難や好悪を交えず、全てを同時に見る事であると思われる
これは五感の再調整というワークではないか
これこそが道元の言われている「自己を忘るとは、自己が万法に証するなり」という状態である
即ち、自己が思考という自我(エゴ)に「思考に捕らわれないで花を見る」とき、万法というあらゆる知覚対象が、分離しない中で、
「その知覚対象が自己自身そのものである」、という段階に達すると言うことを言われたのである
その点、「聴く」ことというほうが「見る」という視覚よりは多少はやりやすい
聴覚のほうが視覚よりは取り組み易いと言うことであろうか
小鳥の嬉しそうな囀りに耳を傾けると同時に、隣で犬が吠えているのにも、同時に選択しないで耳を傾けるとき
その小鳥のさえずりがその音自身となり、その囀りは山を越え、町を越えて拡がっているとクリシュナムルティーは言う
その聴覚に思考という個人や人格である記憶を介在させてはいけない,その聞こえる音は私自身である、と言われている
ただただ聴く
ただただ耳を傾ける、思いや思考や感情を一切挟まず、純粋にその音そのものとなる、
このことは、そのように想像するのではなく、聴くことを邪魔している思考を排除してただ聴くのだ
その状態では、私は何処にもなく、ただ聞こえている「音は即私」、「音」だけ、という音のみが在る
しかし実際は、ここでも条件付けられた頭脳経由の聴覚が(非難し判断している自我(エゴ)という人格や個人が頭脳を占有しているので、
頭脳が間違って動いて)真の聴くことを妨げているが、それには妨げられずに、ただ聴く、ただ耳を傾ける様にしなさいと覚者は言われる
そう言うわけであるので
第1想念である自我(エゴ)の根源まで至る旅に出る前に
この感覚の調整が必要であると覚者は言われている
私たちの五感は「条件付けられた頭脳によって引き起こされている思考」によって占有されており
正しく見れない、正しく聞こえない、正しく感じれない、のだ
常に条件づけられた頭脳の思考が脳を覆っており、正しい知覚が頭脳にフィードバックされていないからだ
であるので、私たちの五感は思考によって歪められ
歪んで見て、歪んで聴いて、歪んで感じるのだ
それは表現を変えれば、
「意識である鏡」の表面が、条件付けられた頭脳に覆われているから、その「意識である鏡」本来の一部の能力であるところの
「真の知覚」である、見ること、聴くことは、現在の人類には行われていないと言うことでもある
知覚は間違った頭脳によって占有されていると言うことである
だから頭脳経由のマインドを排除して、
正しく見る
正しく聴く
正しく感じることが必須とされる
これが行われなくしては、それよりもずっと難しく、極度の鋭敏さを必要とされる、瞑目しての「在る」への旅は
思考が思考自身を見ること、聴くことであるため、より集中ではなくより高度の注意というものが必要とされる
自我(エゴ)を集中して観察するのではない
自我(エゴ)の働きを思考を使わずに取捨選択せず、同一化せずに、極度に研ぎ澄まされた鋭敏さでもって注意するのである
であるので
正しくは集中することは自我(エゴ)の働きであり、それは注意を妨害する、と言われている
自我(エゴ)を見る際は、詳しく言うと、それは思考者を介在させるわけにはいかない、ということだ
即ち、思考という、「見る者と見られる対象である思考の分離」をすることなく
その分離という思考に邪魔されることなく、「見るものは見られるものである」であるという開かれた注意の状態で
意識にやって来る、それらのものと直面する為に、その前に感覚の再調整というワークが求められているのだ
意識にやってくるそれらのものとは、流れる雲である
青空に浮かぶ雲を、ただ流れるに任せその雲を受動的に凝視することである
流れる雲とは、無限の透明な、宇宙の果てにまで続いているこの青空という空間に浮かぶ「私」という想念である
そしてその雲を見ているとき、その流れる雲と見ている私は分離していない
私はその流れる雲である、その流れる雲を見ている私は見られている雲である
これこそ「見るものは見られるものである」であり
その流れる雲が、見ている主体という観察者である私を創り出しているのだ
本当は主体も客体も存在せず、この無限の透明な、宇宙の果てにまで続いているこの青空という空間しかないのだ
と、言うことではないだろうか
ここで言う流れる雲とは、内面にあるもの、内面に発見されるもの、それは自我(エゴ)自身、第1想念
頭脳経由でマインドが創り出し蓄積されている記憶そのもの「わ・た・し」、そして輪廻転生している想念の記憶体
そしてその中身、
それは恐怖であり、不安であり、暴力であり、悲しみであり、葛藤であり、イライラであり、焦燥であり、苦しみであり、その痛みである
それらの内部である知覚されている既知なるそれらのものは、見られる対象ではない、見ている者なのだ
それらを対象である、と見る分離自体が、そのイライラや葛藤や恐怖が創り出したのだ、
その創り出されたそれらこそが、見る主体である「自我(エゴ)」である、と言われている、観察者の中身だ
そのマインドがその二元性でもって時間を生みだし、分離を生みだし、見られている者とは別であると錯覚する観察者、思考者を生み出したのだ
それを見ている私は、それら自身であるマインドが創り出した者である
それを高所から観察している高級な自己とは、実は観察されているそれら見られる対象自身であるに過ぎない
見られているそれらの葛藤である思考が、観察する高級な自己を仮装し、想像しているに過ぎない
事実はそれらの葛藤しかない、実際は私がそれらの葛藤である、私自身こそ、その葛藤自体である
そうではないだろうか
そしてその苦しみをじっと分離することなく見ている中で
開花が始まる
泥沼から蓮の花が咲き始めるように、その恐怖から、花が開き始める, 歓喜が、平安が、 限りなき愛が
これこそがあるが「ままをあるがままに見るワーク」の始まりだ
と、そのように覚者達は教え説かれている
しかし、このワークを始める前に
五感の再調整が必要とされるのだ