自我と超自我
死後も生き続ける自我、何も変わらず続いていくその自我の継続が、腐敗の継続だと覚者は言われる。
多くの「愛深き、心優しい善良なる人」が神に祈ったり、○○○して、友人である彼又は彼女の肉体の健康を祈願し、友人の願望が果たされることに最大の焦点を当ててしまい、その結果として一番肝心かなめな事である、「私とは本当には誰なのか」という重要な質問から遠ざかってしまっているのを見る事はとても悲しい現状ではある。
この私達が使用させていただいている肉体の死後、存続している「もの」、その「腐敗した継続するもの」と覚者によっていわれているものとは一体誰か、何が自我か、また自我の働きとは何か
時々、人生の中で、何気ない人間関係の中やある局面で、よりハッキリと姿を現す、その腐敗している自我はそういう状況の中では、より一層強く認識されるが、その根本は「わたしが・・・」「わたしのもの」「わたしわたし」という自己関心である
(たとえばキリストの弟子のうち誰がキリストの右側に座るかというときや、誰の名前が先に呼ばれるかというようなときに強く前面に出てくるのが「わたしは・・・・という、自己に焦点が合っている自己関心」という自我の働きである)
その自我の「私が・・・、私のもの・・」の働きの具体的な特徴こそが自己関心であり、地位、名誉、金、冨、快楽、成功、女、男、認められること、愛されること等を求めることであり、そしてその自我の最終欲望こそ自我の終焉であり、解脱であり、神との合一である。
その自我の動きに対して、
自分はこんなにも自己関心(人にどのように評価されるかを気にする自分)に振り回され拘っていて恥ずかしい、自分のことばっかり気にして、友人のことを愛せない自分は恥ずかしいと自我(エゴ)を非難したり
自分は自我ではなく、もっと全体のことに留意しているのだと、この現実である「実存の私である自我」を偽って自己を美化したり
それとは全く180度違って、その自我の働きに動かされて、「私を事を何様だと思っているのよ!私のことをもっと認めろ!」と全く自我と同一化してしまったり、そして、羨望したり、卑下したり、より多く愛されることを望んだり
自己関心という自我に突き動かされて、他人からの高い評価を勝ち得るために、他人様から良く思われて尊敬され勲章を貰いたいがために、また自分の評価をよりアップするために「良い行い」「愛情溢れる善行」をしたりして、前者と同じようにその自我と一体化してしまうことや
その逆の良く宗教関係の人に見受けられるように「私はこんな醜い姿だ、何とかしなくては・・・、ああ嫌だ」と自我を拒絶し、自我である私なのに自我の撲滅を神に懇願したり
等々と、この自我に対する反応とはいろいろあることであろうが、この自我に対しての反応こそが、実は自我そのものの働きではないのか
そういうことなので、これらの働きをしている自分の自我や、他人の自我に対して
非難したり、同一化したり、さらには改良しよう、撲滅しようとしたり、自分は自我とは違うのだと思う事こそが自我自身の働きではないのか
しかしこれらの自我の働きは、実際は自我の単なる表面の働きに過ぎないのではないか
この表面の自我の奥に本当の自我(人類共通の)が控えている。
それが超自我と呼ばれているものではないか。そして、それこそがこの「無明の私」、第1想念の「私と言う概念」ではないだろうか。
この人類共通の根本の自我が、「わたしが、わたしが」と主張し言い続ける表面の自我の奥に、
分離の根本原因である「私」と言う「概念の私」が控えている。
これこそが本当の自我ではないだろうか。
それをスパー自我、超自我と名付けている覚者もおられるし、第1想念と云われるかたもおられるし、根本無明と呼ばれる方もいる
私はまだそれに出会っていないし、それがわき起こってくる現場を見ていない(思考の隙間の発見と言うことをまだ久保栄治は体験していない)
その根本の無明の実体とは何であろうか(この限られた久保栄治での考えられる超自我とは一体何か)
■私は貴方ではないと信じること、貴方を私とは別々と見ていること(だから相手に対して何か良いことや悪いことを行うという発想が出てくるのだ)
■私と世界が、若しくは私と宇宙が一体ではないと思っていること(だから世界に対して何か良いことをしたり、世界を救おうとするトンチンカンな働きが出てくる。覚者かたは、世界や宇宙は私の中にあると明言しておられるのだ)
■主体と客体が一つではないと思っており、分離した個人や人格の感覚を持っていること、(だから、自分が行為していると固く思い込み輪廻転生している実体と同一化してしまう)身体を自分だと錯覚していること
■「見るもの」と「見られるもの」が分離しており、神と私とは別々だと思い、対象としての神や、対象としての聖霊を感じたりしている意識である。しかしこれはより厳密の表現では「意識」ではなくて、私たちの通常言語では意識と呼ばれているものであるけども、これは実は意識ではなくて時間が生み出したマインドと呼ばれている思考であるに過ぎないのではないか。
■将来良くなる、将来 解脱に到達するなどとの、過去、現在、未来という時間があるとおもっていること。(この時間感覚が有る限りは、思考の停止も、感覚のスローダウンも発生せず、従って時間を超越している「今・ここ」に参入することは出来ないと思われる、またそれを単なる観念や思考で「いまここ、いまここ」と思い続けてもより深い錯覚に陥るだけではないか)
■認識されている対象である全てが、物質も思考も、善も悪も認識している私自身ではないと信じて、それらは対象である、自と他は別々だと思い込むこと。
(この恐怖は私ではない、この全く何を言っても理解しない石頭の親爺は私とは別だ、私に認識されるこの苦痛は、苦悩は、悪は、自我は私にやってきているので私ではないと思い込むものがマインドではないだろうか)
■ミクロはマクロであり、最小は最大であり、素粒子は全宇宙であると言われているにもかかわらず、無限に拡がる空間自体の意識をもたないで常に限定されているマインドの意識であるもの
■神と私とは分離していないと言われているのに、ことさら神を求めたり、神になろうとしたり、神の事を考えたりする、(神は思考の対象ではないのにである)神とは私ではないと信じているもの
■真の私とは全くの自由であると云われているにも拘わらず、自由というものを全く理解できないでいる根本無明。従ってそう思い込んでいる根本自我には自由なる意志もなく、全く行為しておらず全てが設計図通りに起こっているにもかかわらず、自我である私は、自分が行為しており、自分が輪廻転生している、自分が生きていると思い込んでいる。そして魂の低次部分(魂の現象界に接触している部分)はこの転生しているプログラムである自我(自分が行為しており、自分には自由意志が有ると信じ込んでいる自我という記憶体)と完全に同一化してしまう。
■この全体で普遍で、自由なる意識ではないもの、単なる時間と云うマインドであるものこそ超自我である。私という限定されたこの思考の本体である。これがこの魂という意識の座を覆っている実体であるのではないだろうか。
現在のこの私の意識とは、間違ってそのように呼ばれているマインド・思考であり、決して意識ではない。
このマインドは、感覚や肉体と同一視している「私と言う記憶実体」であり、思考である。
この現在の私、現在意識の中身とはプログラムの思考や感情そしてそれに反応する記憶体としての自我と、超自我との複合体であると思われる。
このわたしと意識し、意識されているものこそが全く私では無いものであると私は信じている。
(この現在の意識し、されているものは、実は意識でなく、時間空間という間違った分離認識をするマインドというものであり、これこそが「自我(エゴ)としての私」でありさらにその奥にある超自我でもあると思う。魂とは未知なるものであり、このマインド思考によっては自覚されない、「在る」という実感・実在であると云われている)
だからこそ、私たちは受動的に、これらの私ではないものを、極度の鋭敏さでもって、自他に分離することなく常に観察していなくてはいけない、といわれているのだ。
クリシュナムルティーは云われる、「光りは闇を闇と見たとき最初からそこに光り輝いている」と「虚偽を虚偽と見ることが出来たとき、そこに真理がある」と
それをラマナ・マハリシはこの根源の自我に至ったとき、その根源の自我は存在していない、そこに真我が出現していると云われているのではないか。
クリシュナムルティーは私たちの仕事とは、闇の中で闇の一種に過ぎない「闇の変形である光り」を「光」だと思い込んで求めることではなく、この闇を闇と見る事によって、その闇が去り、最初から既に存在していた光りを光として輝かすことである、といわれている。
だからこそ、私たちはまずはじめに、この自我と超自我の策略に気づかなくてはならないと言うことである、騙されてはいけないということであると思う。
自我と超自我の働きとその全てを、同一化せず、非難せず、ただただ全体的に受動的に留意しなければならない。
思考なくして、「見るものは見られるものである」であるとして、この私ではないものに気づいていなければならない、と言うことであろう。
この私ではないものの動きを受動的に注視していなくてはいけないと思う
それが思考の静寂に導き
本物の「沈黙の入り口」に辿り着くと言われている。