聖なることには、金銭が絡まない、金銭があるところ聖なるものは無い



良く精神世界での常識として、
この聖なるものの授受に金銭が絡むことがあたかも正しいことのように考えている方々が非常に多いが
その論拠になっている考えは、
価値の高いこと、その知識に、またその体験には当然、
それ相当のこの現象界での価値を決めている金銭という媒体で値を付けるべきであるというのが、その根底にある

いわゆる金銭というのはそのものに価値を付ける基準・物差しというわけである

では、その金銭の本質とは一体何か

その金銭という概念はどこから来たのか、

金銭とは「私のもの」「貴方は自分と別々の存在だ」「私は肉体」「支配欲」「所有欲」等々の錯覚である概念からやってきたのだ、

その根源は宇宙的な規模を持つ、宇宙的な勢力の持つ支配の道具であろう、
それがいままで地球を支配し、私達の幻影をしっかりと支えているのだ

即ち
「私のもの」「自我」という自他の分離という幻影をである

来るべきアセッションの後の地球における状態を上江洲義秀先生に聞いたことがある

これからの地球に国家は在りますか?

いや、存在しない

これからの地球に医療は在りますか?

勿論、ない。 病気という事自体が存在しないからだ

これからの地球に警察は在りますか?

あるはずもない、自他の分離がないところに何故犯罪があるのだろうか

と言うことだった

従って軍隊や、
法律や
裁判所も、
学校も(それは真我が担当する)
弁護士も勿論無いことであろう

そして
私達が、一番当然のこととして、この地球で通用しているものはそこには無いことだろう
それは何だろうか
それが貨幣経済・銀行である、金銭である

私達が一つであることを自覚したとき

そこに
「所有」
「私のもの」
「備蓄」
「貯蓄」
「商売」
「取引」
なることは起こるはずもない

相手がいると錯覚しているからこそ、その二元性と分離性の中でのみ取引ということの観念が発生する

それは中身は搾取であり、相手を騙すことなのだ

もし私達に愛というものがあるとき、其処には取引や商行為といったものは存在しない
取引や商売や商いとは、実は愛が無いときにのみ発生するのだ

で、あるので
「私」「私のもの」が存在しないとき「相手」「他人」は存在しない、

全てが私であるとき、
私は貴方であり、貴方はわたしであるので
取引という概念は一切発生する余地もない

その時、それは与え尽くす愛の中で
経済は無くなる、その概念と実体は消失する

全ては無限、

全てが無尽蔵

愛はあふれ出る無限の、無尽蔵のこととなり、
それは現象化して
物質化する


愛を与えること、全ては与えることの喜びとなる

であるので其処には経済は存在しない

無尽蔵だけがある

手を伸ばせば其処に必要なものが在る、物質化している

全ては既に満たされている

自分ものも、他人のものも無い、その区別は存在しない

限りない豊かさだけがある

与える愛によってこの世界は成り立っていることだろう

「愛は与えることで更に与えられ、更に豊かになる

これがアセッション後の地球の人類の根本である
経済という概念自体が有限という錯覚から発生しているのだ
これからは
溢れる愛の中で私達は、お互いに与え合うのである、
なぜなら其処には他人がいないのである
「貴方は私であり、一つのわたしである」からである


しかし、このアセッション直前のこの地球に目を移すと
それにもかかわらず、現在大きな錯覚が、この私達地球に蔓延している

その聖なるものの価値は金銭の高低で価値を顕すと言う根本から間違った考えだ
金銭そのものが、自他の分離、愛の欠如から発生したのだ

金銭は(貨幣経済は)、「私のもの」「自我」が存在するという錯覚の元に発生したのだ
それは搾取する事の目的から
商取引の概念が生まれた

そしてその中身は「ビジネス」「商売」「経済」であるが、

中身はすべて搾取であり、奪取である
ビジネスの本質は騙すことだ

今後アセッション後の地球の経済と価値基準を示すものは貨幣ではない、それは愛へとかわるに違いない

価値あることは愛であり、その価値は等級を付けられることはなく、愛が流通の、基準になる

無限であるので経済は消失する

具体的に言えば
手を伸ばせば其処に必要なものがあり
食べ物や必要なものは其処に物質化している
移動や通信はテレパシーとテレポテーションに代わり
物資の移動は、瞬間移動に変わる
物質は思うだけで物質化する

だから
「備蓄」や
「私のもの」や
「私」が存在しないとき
全ては私であり、また貴方であるから
経済自体が存在しないのである


この貨幣経済、そして「価値を計る物差しが金銭」という考え自体が
二元性で、分離性そのものであり、この地球を汚染し、支配してきたのだ


真の私なる神は見返りを求めない、御礼を要求しない

私達でさえ、自分の子供に与えた愛に対する謝礼を要求したり、
「おまえが一人前になるのにこれだけお金がかかったのだ」等と言うだろうか

真の私なる神には一切金銭は関与しない

金銭の概念が発生すること自体が、其処に自他の分離が支配していることだけであり、愛は微塵もないことに気がつくだろう。

神は愛であり、太陽の如く与え続けるだけで代価を求めることはない。

空気や太陽や空間が「私は貴方にこれだけのことをしているのだから、これこれを要求する」
などの思いが起こるのだろうか。

また私達がその神の愛の価値に気づいたとき、神は金銭という代価ではなく、本当の代価である「愛」を私達に求めている事にどうして気がつかないのか、騙されてはいけないのだ!


聖なる御方が求めておられるのは、金銭の代価ではない、
「無限の愛」というものを全てのものに注がれることを求めておられるのだ
それを貴方である私に与えることなのだ。

「無償の愛」こそ今後の経済の流通の基盤となるのだ。

金銭は姿を消し、貨幣経済は終焉する
経済は終焉する。


これを要約すると

・聖なる方は金銭に関与しない、愛をそしてこの最高のものを無償で、無限に与えるだけである

・金銭の取引自体、そして経済の概念自体が搾取である

・真の神はお礼を求めることもないし、見返りなどを求めることはない、人間の家族すらそのようなことはしないのに

・愛は無償であり、金銭は一切介在しない、与えることの中に、その愛の中には金銭が入り込む隙はない

・ビジネスの根底は自他の分離、そして搾取である

・商取引のその根幹には、暴力と憎しみがある

これらの事から
次の結論に達する

即ち神聖なる領域には貨幣経済は入ることは出来ない、金銭は絡まない

この聖なる学びは、お金が絡まない、絡んではいけない
この学びをビジネスにしては絶対にいけない!!


聖なる御方は金銭を請求しない(こちらの気持ちとして差し出すことはあっても)









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