色即是空
般若心経のエッセンスは色即是空であるけど、それを現代風に理解すれば、
全ての物質でありマインド(意識)であるものは空から出現してきたと言うことだろう、
最小の素粒子は無限の空間から出現したのだ。
無限大の空間が無限小の素粒子なのだ。無限小が無限大なのだ。
各意識(思考)の次元(レベル)とは、その物質(この物質界のだけではなくより精妙なる物質)という質料の次元である
次元の差である
何故なら「思考は物質」(クリシュナムルティー)であるからだ
思考(意識)は物質(質料)である、それは同じものであり、或る面から見ると意識であり、別の或る面から見ると質料である。
なので、物質(質料)は思考(意識)である。
さらに、思考(質料)は時間でもあり、それらは総括して現象世界と言われている。
気づき(あるがまま)とは質料(物質)ではない、現象世界、意識世界ではない。それら次元を超越している絶対存在
に属しているのではないか
質料(物質)は気づきの領域(絶対存在)にはない
質料(物質)は次元であり、時間である。時間の中には気づきはなく、気づきの中には時間は存在できない。
人間の場合、人間を構成している、それぞれの各質料(各物質)によって、それの持っている意識(マインド)が異なり、
機能も、その働きも、特徴も異なっている。
人間とは重層している(複層している肉体や、サイキック体や思考体やコーザル体など)それらの異なる質料によって構成
されている。
人間とは複合的、重層的な存在であり、物質という質料、サイキックという質料、メンタルという質料、さらなる高次の質料に
よって構成されており、それぞれが異なる意識と特色を持って機能していると思われるが、その特色は全てが分離と時間である。
そのそれぞれの各次元の質料は、それぞれが異なる「私」という意識を生みだしており、
そのそれぞれの質料の私が思考して、肉体を使って、「見て」、「感じて」私が見ている、私が感じている、私が思っている
というのである
瞑想をしている私とは私だろうか?
私が何かを為していると思っている私とは私であろうか
体脱体験をして、その肉体を上空から観察している私とは私だろうか?
貶され、辱めれて、傷ついている私とは私だろうか?
自尊心が傷つき、神から選ばれたと思って高慢になっている私は私だろうか?
尊大で、自分を意識して(自己関心に囚われ)他人が存在していると錯覚して批判したり、非難したり、判断したり、
善悪を付けたりしている私とは私だろうか?
将来を不安に思い、悩み、考え、安全・安定を願っている私とは私だろうか?
恐怖を抱いている者は私だろうか、若しくはその恐怖心に震える私を観察している私は私だろうか?
肉体や質料を持っている身体を私だと思っている私とは私だろうか?
過去や未来という時間を認識し、囚われ、自分と世界は別々だと思っている私とは私であろうか?
存在していない他人を見て、他人がいると思っている私とは私だろうか?
思考し、思考であることろの私とは私なのであろうか、対象(客体)を認識している私とは私なのであろうか?
この質料であり、この波動であり、このエネルギーであり、この段階であるこのレベルの私とは私だろうか?
この真の私に至っておらず、到ろうとして努力している私とは私であろうか?
自我とは私だろうか?、またその記憶の塊を生み出した根本無明である私とは私であろうか?
それらの認識し、認識されている私とは質料が生み出している私である。
その私とは質料の意識であり、マインドである。真の私ではないのではないか?
従って「私」という時、その「私」の中身とは質料に応じて重層的、複合的なのであり、
そのそれぞれは私とは、全てが真の私、所謂、各質料を生み出した根源の大元である「空」である私ではない、と思われる。
けれども、それらの異なる質料とは実を言えば、ただ一つの根本的な質料が姿を変えたものであり。
その根本の質料とは
その空である「空間そのもの」から出現してきたものであり、
空である「空間」そのものが姿を変えたものであるのではないか。
その
根本質料が出現してきた根源である「空」とは何か?
その質料の中核が出現してきた空である空間とは何か?
その沈黙の中に出現してくると言われているものか?
それが気づきであり、「無思考」「非対象」であるではないだろうか
そこから出現した同じ一つの質料が、それぞれに異なる次元を生みだし、別々の異なる意識界とその質料とその意識と
を生み出しているのではないか。空が質料を生み出したのだ。
即ち、「色即是空」「空即是色」である。
その色という各次元とマインドの階層性をもつ質料であるところの「意識・物質」が、それぞれの分離した「見るものと
見られるもの」の区別である二元性を生み出したのだ。
それが私とあなた、私と神、私と世界という、私とそれとが分離しているという錯覚を生み出したのではないか。
その見るものと見られるものも、観察する者と観察される者は、ともにこの空から生まれてきたのではないか。
この主体と客体の分離というものは(即ち各マインドの異なる特色は)、その根源から、その空から出現してきたのではないか
そして、これを見ている目が、「次元観察子?」ともいわれており、このマインドという次元を観察しているものでは
あるがそれは、真理という空そのものではないのかもしれない、その空と質料の接点の意識であるのだろうか
クリシュナムルティーはだから
「虚偽を虚偽と見る事」、「虚偽の中に真理を見ること」、「真理を真理と見ること」のプロセスを言われたのではないか
次元観察子とは、それらの分離しているマインドの意識界からは無限に遠ざかってはいるけれど「虚偽の中に真理を見る
こと」の状態であり
まだ真理そのものではないのではないか
「真理を真理と見ること」の中では上江洲義秀先生を始めとする覚者がたの言われるように、そこには見るものもなく
見られるものもなく、見るものは見られるものであり、上江洲義秀先生流に言えば「神しかいない」、「ただ一つであるもの
しかいない」、「一命一体」、「全てが完全完璧、完成している」、「我はそれ」という状態であるのだろう
この「真理を真理と見ること」の状態の中には、真理を見るものも、対象としての真理もなく、真理のみがあり
神を認識するものもなく、対象として認識される神もなく、全てが神そのものという状態(私にはとても推測は出来ないが)
と言われている気づきの状態なのであろう
さて翻って、色即是空であるが
空が質料(各物質、マインド、限定された意識)として現れているときは、それぞれの質料であるマインド意識が、自分が
行為しているという観念を必ず持ち、
本来存在していない他人がそこにいると思ってしまうのだ(プンジャジより)。
そして、その存在していない他人がいると思い込んでしまうマインドは必ず恐怖心を伴うのだ。
この質料である根本マインドの基盤とは存在していない他人(自分)を存在していると思い込むことなのだ
(あなたの目の奥に、私がいる・プンジャジより)
真の私以外には、他人とは存在していないのに各次元のマインドは必ず、その錯覚に囚われ「他人がいる」と思い込むのだ
(プンジャジ)
これらの意識界を構成している各次元のマインド意識の特長とは客体を認識していること、そしてその客体を認識している
偽の主体が生み出されていることだ。
客体を認識している主体は本当の主体ではない。それは客体の一部なのだ。その偽の主体とは対象である
マインドの(質料の)一部だ。
本当の主体には客体はおらず、存在せず、主体とは客体であり、主体と客体は分離しておらず、そして更にその主体も
客体も超越している状態である。
これが「ただ一つであるもの」と言われている状態であり、それは認識している者が存在していない「今」にのみ「在る」と
言われている「次元を超越している空」そのものであるのではないか
そしてその空そのものが空そのものであるとき
色と空とは異ならず
空と色とは異ならず
真の私と自我(エゴ)とは異ならず、現象は実相であると言う超越した状態に到るのだと思われる
これは上江洲義秀先生をはじめ多くの覚者方のステイトであり、私には想像も推測も出来ないが
空が即ち質料(各物質及びそれが持つマインド)であり、その状態である無思考、非対象の照見の状態こそ、
色即是空を照見している観自在菩薩の気づきである
このとき、あなたと分離している私も無く、私と分離しているあなたもなく、行為している私もなく、行為しているあなたもなく、
〜になろうとする状態の次元の私も無く、あなたもなく、ただただ「ただひとつなるもの」のみの空間・「空」のみがあり、
その時、空が私であり、私が空であるとの絶対認識であることだろう、と言われている。
これ以外の私と言う認識主体はいかなる次元であろうとも
質料の異なっているその質料の結果である私であっても(例え高次の私であっても)、
それは必ず対象(客体)を持つことであろうし、その自分以外の存在と言う客体を認識している主体の感覚が有ることだろう、
それこそが錯覚である。
その分離した客体と、それを認識する分離した主体の虜となった状態が存在している限りは、そこには決して恐怖はなくな
らないし、自我が如何に高度に洗練されていようともなくならない。
それは真の私ではなく、マインドという質料が生み出した結果の私なのである。それは決して真の私ではない。
真の私であるとき、
客体もなく、客体を認識する主体もなく、私も無く、あなたもなく、対象としての世界もなく、
全てが私であり、私がすべてであり、全てがただ一つである、全てはただ一つであるものであると教えられている。