「私は肉体である」という観念には「私は肉体ではない」という観念が有効である



とニサルガダッタ・マハラジは言う
何故なら両者は共に観念であり、真実はその観念は共に観念であり、存在せず
事実とは
私達は個人ではないこと、
自我は存在しないこと、
真我は「在る」として実在であること、
私達は肉体ではないこと、
私達はマインドではないこと、
自分は人格はではないこと、
私は自我ではないこと、
私は分離していないこと、
私は全てと一体であることであり

それらは観念ではなく、観念には一切影響を受けない、実在であるからだといいます


私という観念、
私は人格であるという観念
私は個人であるという観念
私は肉体であるという観念
私はマインドであるという観念
私が思い、考え、思索し、知覚し、体験しているという観念
私が行為しているという観念
私が人生を生きているという観念
私が色んな運命に出会っているという観念
そしてそのもとになっている
私は個人的な分離された個別的実体である魂で、輪廻転生しているという観念

これらの想念、想念形態、想念創造物を

打破し駆逐するのに

その反対の観念が役に立つと

ニサルガダッタ・マハラジはいう

即ち
私は存在しないそれは観念にすぎない

私は人格ではない私は非個人であり、私はあなただ

私は肉体ではない、肉体は私の一部の洋服であり、多くある表現体での一部であるにすぎない

私はマインドではない、マインドは私にやってきて流れる雲に過ぎない、私は無限の青空であり空間である非個人的観照者である

私が思い、考え、感じ、体験し、経験しているのはない、
それらは私ではないそれらは私に起きている、
私は行為者ではない
全ての内面や外面の出来事は、筋書き通りに起きているのに過ぎない、
私はドラマの出演者ではないドラマを観照しているものだ

私はそのドラマには一切関係しない、
私は私を通じて起こっているドラマを見ている私は行為者ではない

私のものという人生はない、
存在しない、それは私が存在するという夢に基づいている夢である、
私は人生を生きていない、
この世界は私達の世界ではない、
実在する世界は分離していない、
私達は一体である



私達に運命はない、
運命という概念が個人が存在するという間違った観念に基づき発生している、
個人がそもそも夢の時、何故運命があるのだろうか、
個人というものが非存在の時、
個人的運命はいったいあるだろうか、

私達はこの地球人として一つの意識であり、一体である、
そして一つの運命やカルマを持ち、
一人が犯した罪(私達は個人であると錯覚すること)は全員のカルマになるのだ、
個人のカルマは存在しない、地球人としてのカルマだけがある
個人は存在しない
私達の意識は一つであり
あなたの意識は私の意識だ
それが真我の意識だ
これが
テレパシーのベースになっている
意識場である


私達は魂ではない、
多くの輪廻を繰り返している魂は虚構に過ぎない、存在しない、
私達は一つの命、一つの身体である、一つの意識である

これが正しい観念であり
真実であり
そして観念を超える実在であり
実相である

私達の現在の意識は
恐らくこれを受け入れることは出来ないし
これらは未知なることであるので理解できないだろう

それだからこそ
この実在は
私達のこの二元性である
認識にとっては、
知覚にとっては
経験にとっては
思考にとっては
頭脳にとっては

時間や空間の概念の上に構築され、二元性の上に構築された思惟や概念では一切把握できないし

私達の
認識や、知覚や、経験や、思考や、頭脳や、時間や空間の概念や二元性の思惟、概念で把握できるものや
対象は一切
真の私ではない
それは真我ではない
認識できたり、対象であったり、経験したり、知覚出来たり、見えたり聞いたり感じたり、思ったり出来るものは
真我ではない
二元性で把握できるものは私ではない真我ではない

真我は非二元性であり、非分離性であり、全体であり、普遍であり、偏在であり、久遠であり、過去現在未来を超えており
一命一体である

それは在る
「私は在る」「I AM THAT I  AM 」

それは私達に起こる
起こるべきものとして
必ず
起こる
しかし待つことはマインドの働きであり、その起こることを妨害する

だから
ニサルガダッタ・マハラジは観念でも良いから正しい実在に裏付けされた観念でその虚偽なる観念を打ち砕きなさいという
その
虚偽が打ち砕かれたとき、最初から光があるという
虚偽が虚偽であると見られたときそこに最初から真我があるという
だから
虚偽を虚偽と見ることが否定的接近である
虚偽を虚偽と見るためには私達はこの正しい観念を使用しようではないか

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