瞑想
クリシュナムルティー「瞑想」より抜粋
瞑想には
始まりも終わりもありません
瞑想に於いては
成功や失敗というものはなく
何かを積み上げることも
放棄することもありません
瞑想は終わりのない運動です
それゆえに
時間と空間を超えているのです
瞑想を体験すると言うことは
瞑想を否定することです
というのも
ひとは時間と空間に縛られ
記憶や認識に束縛されているからです
真の瞑想のための基本となるものは
ただ感受していく気づきです
それは
権威から野心から
妬みや怖れから
全く自由なものです
(96頁から抜粋)
瞑想するとは
時間を超越することです
時間とは
思考がその達成に向けて旅する距離のことです
その旅は
新しい装いをこらしていようと
新しい風景に取り囲まれていようと
いつも古い道を通っていきます
いつも同じ道筋を辿り
苦痛と哀しみの他には
何処にもたどり着きません
(102頁から抜粋)
瞑想の中では
何も繰り返されない
習慣の連続はない
そこでは
知られているすべてのものが死に
知られざるものが花開く
瞑想とは完全な注意をはらって
あらゆる状態を見ている
心の状態です
部分に注意を向けるのではなく
全体に注意を向けるのです
(106.7頁から抜粋)
あなたがすべてに注意を払えば
完全な静けさがおとずれるのです
その注意の中には
どんな境界もありません
中心となるものもありません
気づいている”わたし”とか
注意をはらっている”わたし”のようなものはありません
この注意
この静けさ
それが瞑想です
(瞑想とは)
言葉を指し挟むことなく知覚すること
思考を差し挟むことなく知覚すること
それはもっともめずらしい現象のひとつです
そのとき知覚は
はるかに鋭敏なものになります
頭だけではなく
全ての感覚が働くようになります
そのような知覚は
知性による断片的な知覚ではありません
感情に左右された現象でもありません
それは完全な知覚とよべるものです
それ自体が瞑想の一部です
瞑想の中で
知覚する人なしに知覚するということは
限りない高みと深みに合一すると言うことです
瞑想の中で知覚するときには
対象となるものはなにもなく
それゆえどんな体験もうまれないからです
勿論瞑想は
眼を見ひらき
あらゆるものに取り囲まれているときにおこります
しかしそのとき
それらのものは
全く重要ではありません
それらを見ても
どんな認識過程もおこりません
どんな体験過程も起こりません
瞑想は独りだけのものでなくてはなりません
あなたは完全に独りにならなくてはなりません
瞑想の方式に従ったり
言葉を唱えたりしてはいけません
何かの思考を追求したりしてはいけません
あなたののぞみ通りに
思考をかたちづくったりしてはいけません
愛が姿をあらわせるのは
完全な静けさがあるときです
瞑想する人がすっかり消え去っている静寂の時です
心が静かになれるのは
心がみずからの動きを理解するときです
心は思考や感情として動きます
この思考や感情の動きを理解するには
それを観察しているとき
非難するまなざしがあってはなりません
そのように非難しないで観察することは
ひとつの鍛錬にほかなりません
そのような鍛錬は
しなやかで
自由なものであり
服従を強いる訓練とは違います
ひとが取り組まなくてならないのは
生きた体ではなくて
むしろ心のほうです
意見や先入観や利害を抱えた心が
注意深く観察されなくてはなりません
心が健全で生き生きとし活力に満ちているとき
感じる力が高まり
極めて敏感になります
そのときからだは
習慣や好みによってそこなわれていない
生まれながらの独自な知性にもとづいて
ほんらいのはたらきをします
だからひとは
からだからではなく
心からはじめなくてはなりません
思考と化した心
さまざまなかたちで表出される思考からはじめるのです
しかしたんなる精神集中は
思考をせばめ制限し不安定にさせるだけです
むしろ思考のはたらきに気づいているとき
集中は自然なものとしておこってきます
このような気づきは
思考する人からはうまれません
思考する人は
選んだり捨てたり
固執したり拒絶したりします
しかし気づきの中には
選ぶと言うことがありません
外側のことにも気がついているし
内側のことにも気がついています
そのような気づきは
両方の間を行き来しながら
流れていきます
そこでは外と内の分裂はなくなります
(瞑想)それは
瞑想する人のいない瞑想だった
瞑想する人がいれば
その愚かさや虚栄心や
野心や貪欲さによって
瞑想は妨げられる
瞑想する人というのは
思考に他ならない
思考はそれらの気持ちが葛藤し
争いあうなかで培養される
思考は
瞑想の中で
完全に止まなくてはならない
これが瞑想の基本だ
(101頁より抜粋)
この真の実在は体験できるものではない
体験することが
終わらなくてはならない
体験というのは
既に知られているものを強めるだけだからだ
既に知られているものは
けっして真の実在ではない
瞑想とは
決して体験を積み上げていくことではない
体験とは
大きかろうが小さかろうが
刺激に対して起こる反応に過ぎない
そればかりではない
瞑想とは
真の実在に到る扉を開くこと
燃えさかる炉の扉を開くことだ
その炎は全てを焼き尽くす
一片の灰すら残さない
燃えかすは何一つ残らない
わたしたちは残り滓にほかならない
延々と続く過去を引き継ぎ
途絶えることのない記憶を引き継ぎ
選択と絶望を繰り返している・・・・・・・・・・
大きな自己も小さな自己も
あるかたちをとった存在物にすぎない
存在物とは思考に他ならならず
思考が存在物の正体なのだ
そこでは
哀しみがたえることはない
瞑想の炎のなかで
思考は燃え尽きる
それとともに
感情も燃え尽きる
思考も感情も
愛ではないからだ
愛がないところに
真の実在はない
愛がないなら
あるのは灰だけだ
その灰の上に
わたしたちの存在がつくられている
何もない虚空からあらわれるもの
それが愛だ(92頁より)