私ではないものとは 第二弾
私に知覚される「あるがまま」とは真の「あるがまま」ではない。
そもそも、この二元性の認識形式である主客の分離の知覚とは、
主体が「分離した対象として自分以外」を知覚する形式であり(本当は分離しておらず見る対象は自分であるのに)
これこそが「主客が分離しているマインド」の知覚形式であるところの、心の認識形式である。、
けれども、これは「心という二元性」を超えているところの、本当の私の知覚で全くない。
分離のように知覚されているものは、真のあるがままではない、実在ではない。
実在はこの知覚の形式では知覚されない。
本当のあるがままとは「知覚するものが、知覚されるものである」という非分離の中でのみ知覚されるものである。
この現在の私の知覚とは、マインドの知覚形式であるところの、自と他の分離を前提としており、「分離している時間と空間」に縛られている以上は私たちの知覚は、幻覚の、錯覚の知覚であるといえる。
この現在の私の知覚は、
真の私の意識である・「気づきという非分離意識・非二元意識」ではないところの、真の私の知覚ではないから、本当は私である、ところの見られるものの全てを、誤って「自分ではない対象」としてしか知覚できない。
偽の知覚がこの分離知覚である。
また知覚だけではなく、この様に知覚している主体も同じく真の私ではない。
真の私とは分離していない、二元対立していない。
真の私の知覚とは、時間の束縛を超えているし、空間にも束縛されていない。
この限定された「知覚の主体である知覚する私」とは真の私でもなく、そして、その知覚自体が真の私の知覚ではない、偽の私の知覚である。マインドがそのように知覚しているのだ。
偽の知覚を私の知覚と錯覚してはならない。
その偽の知覚をしている私を、私と取り違えてはならない。
この偽の知覚の対象をあるがままと取り違えてはならない。
あるがままとは、「偽の私の知覚の対象」ではなく、私自身であり、全体であり、分離していないものだ、それは私である。
そして
この中には偽の私は存在していない、なので「私は在る」のだ。
この「在る」ところの「存在そのもの」こそが真の私である。
と覚者がたによって教えられている。
この私は私ではない | 自他を分離して、私と貴方が別々の存在であると想像している偽の私とは真の私が創り出している想念であるところの「魂」そのものである。 この魂とは通常意識(現在意識)ではなく、更に奥深い潜在意識でもある自我(エゴ)のことである しかし非分離性のなかでは、この偽の私さえも、全宇宙の全ての「他の人の偽の私」とともに一つである |
この魂は私ではない | 真我から浮かび上がった第1想念である魂は、その自身の根源に至ったとき存在していないと言われている。 この第1想念は頭脳を経由した「肉体と同一視しているマインド」を自分のマインドだと錯覚して記憶してしまい、その記憶が人格を作り出し、自分は名前を持った個人○○だと錯覚してしまう。 最終的に神と合一を為すところの魂は本当は存在していなかった。 真実とは、魂は存在せず、真の私だけが初めも終わりもなく存在していた。と言われている。 |
頭脳は私ではない、肉体は私ではない、他の精妙身体も私ではない | 真我によって条件付けられた、「頭脳の機能・構造」や「プログラム」が解除され、頭脳が「自由」「愛」をチューニングできるようになったとき、私は存在していないことを、その「真実の気づき・意識」は完全に認識するだろう。 |
思考は私ではない、感情も私ではない | 意識の座にやってくるのは、 頭脳を経由した根本無明・マインドであり、その本質である時間・空間に制縛された思考である。 このマインド・心からのいろんな思考や感情だけではなく、(これが現在意識である) 魂からの(奥深い記憶からの即ち自我(エゴ)としての)反応や情報も、 そして肉体の知覚信号も、 さらに下部チャクラにいる「前世の個人の人格であるワサナ」等からも 同じように頭脳を経由してやってくる それらは全てはプログラムによって管理され、現在の知覚によって一括して、自分の思考、想念、感情などとして認識される けれど 頭脳の条件付けにより、頭脳が受信できない機能になっている限り (この頭脳が手術されない以上)は 高次の意識である自由である気づきという真我からの意識は届かない。 |
自我(エゴ)は私ではない、個人や人格は私ではない、記憶は私ではない | 自我(エゴ)とは現在意識の更に奥にある魂のことである、 この魂が頭脳を経由した思考を記憶して、この「思考という分離性」と同化してしまう。 この自我(エゴ)という魂が思い感じて、知覚して、行為している、と錯覚するも、実際は意識の座には頭脳で受信され、やってきて、起こっているだけである。 魂という自我(エゴ)自身は意識の座を覆っているのだ。 ただし、この魂は真我という生命の大元から直接に派生した想念でもであり、聖なる真我からの光線・波動も届いている。 |
私の意志も、行為も、欲望も、行動も、出来事も、カルマも私ではない | この現在の私とは上映されているプログラム上の自我(エゴ)である。 プログラムを作ったのは真我の観照者である。 カルマとはこのプログラムを推進するための動力である。 このプログラムに従って現象界という三界輪廻の夢物語は、スクリーンに上映される。 映画の登場者は色々と肉体という衣裳を替えたり、生まれたり、死んだり、感じたり、喜んだり、計画し、願い、恐怖し、行動するだろうが、それらはすべて、完全にプログラムに従っている。 内部も外部もプログラムである。 プログラムから離れるのは、プログラムがこの魂を解放する様にプログラムされているときだけである。 であるので、このスクリーン映し出されて出演している私とは、真の実在ではない「夢の私」だ。 |
私の条件付けや個別プログラムは私ではない | プログラムによって頭脳の条件付けが一部解除又は変更され、もっと高次のエネルギーや、高次の次元・意識を受信できるようにならなければ、(魂に届くようにならなければ)上映中の自我(エゴ)は解放されない。 頭脳から魂(松果体)が受信し、そして逆に魂(松果体)から脳を経由して、伝達神経に送信し投影して、その投影したものを脳内で外界や世界・宇宙・肉体などの身体として知覚しているのだ。 バイロケーションや分身やテレポ、次元の移動、時間の移動、他の星への移動やそこでの経験等々をするためには、高次の身体が必要である。 頭脳がレベルアップして、条件付けが外されると同時に、この高度な頭脳と協調して、成長した魂の松果体により、高次な精妙体や複体を創り出して 意識界や現象界を自由に時間移動や空間移動や物質化が出来るようになる。 但し前世で既にその段階に達している魂はその能力を使える。 そういう頭脳を持った肉体に再誕してくる。 |
知覚している私は私ではない、この知覚も私のものではない。 | この知覚は「知覚するものと知覚されるもの」という分離の上に成り立っている。 また、この現在の魂の知覚も、この魂を覆っているマインドも共に、あるがままという「我はそれ也」を見ることが出来ない。「見るものは見られるものである」を理解できない。 この現在の知覚とは錯覚だけを知覚しているに過ぎない 真の私の知覚は、この魂の知覚でもなく、この魂を覆っているマインドの知覚でもない。 |
記憶している私は私ではない、この記憶も私のものではない | 記憶の中身とは、自他の分離という錯覚のみである。 この記憶であるものが、サイコノエティック体とか魂とか呼ばれている第1想念である。 真の私・観照者とは記憶ではなく、記憶を収納している「コーザル体」、を使っている全体意識である 思考ではなく、「分離していない気づき」という二元性の無い(即ち私が全くない)意識が真の私である。 あらゆる時を超えて初めから終わりまで、この真我の私の中に全ての完全なる記憶が在ると言われている。 |
認識している私は私ではない、この認識も私のものではない | 認識も体験もこの既知なるマインドに覆われている第1想念・魂の範疇内のことであり、 自己という枠内のことであるので、全ての体験も認識も、そこで体験しているこの私(偽の)がいる限り、真の体験や認識ではない。 真の体験の中には体験している人は不在である。と言われている。 |
五感覚を受け取っている私は私ではない、この五感も私のものではない | この五感が私は肉体であるという、誤った錯覚を支えているのだ。 このトリックを支えているのは頭脳の条件付けの仕組みである。 この五感は、真実を隠蔽している頭脳が生み出した感覚だ。 魂である第1想念を思考が覆ってしまい、真我の本来の第十感覚?!が発現できないのだ。 真の感覚ならば、それは全体の分離していない私であり、全てが愛であることだろう。 |
思考している私は私ではない | 真実は決して、この限定された「知ること」によって、知識によって、思考によって、知性によって明らかにはされないし、理解はされない。 非二元性であり、非分離性である私は、知識を知ることでなく、その知ろうとする自己を失うこと、この自己が死ぬことによってのみ理解される。 魂の本質が想念であり、その魂はやってきた思考と同一化して個人や人格、自我(エゴ)という錯覚を生み出した。 だから、この魂が非実在であったことを知らねばならないのだ。 個々の魂は存在せず、全てはこのプログラムで管理されている プログラムによって起こることは必ず起こる、何かを為す魂は結果である。 |
輪廻転生している私は、私ではない | 輪廻している主体は私ではない。魂であるところの第1想念である、サイコノエティック体である。 真の私・観照者は輪廻していない。輪廻を見守る者である。 輪廻している「記憶である第1想念である魂」を抱きしめる私である。 |
思考は私ではない(やってきている時間であるマインドだ) | マインド思考は時間であり、分離性であり、恐怖である。 これが頭脳にやってきているものであり、根源によって使われているマインドである。 マインドは根源の道具である。 その本質は非存在、錯覚であり、「見るものは見られるものである」の非二元性・非分離性の中で消滅する。 |
「全てが私である」と自覚していない私は私ではない | 愛と、喜びと、感謝と、静寂と、平安が充ち満ちていない私とは、真の私ではない。 真の私のなかには、闇はなく、悪もなく、敵もない、勿論、害を為すブラックなど存在していない、分離がないのだから。全ては完全なる愛であり闇のない光である。 光があるところに暗闇は存在できない。 |
自分を行為者と思っている私は私ではない | 行為は起きている。意志は起きている。欲望も起きている。根源から。 そして、これに対して、条件付けられている通りに反応するのが「想念である魂」である。これが自我(エゴ)と言われている。 行為も、欲望も、思考や感情や想念も意識の座に起きているものだ。 肉体の、そして諸身体がする行為も、行為というものは根源が起こしている。 魂はこの行為には関与していないし、できない。 私が行為しているものだと信じているものは、魂という偽の私の自己であり、その私の中身は記憶・思考である。 これが魂である自我(エゴ)であり、サイコノエティック体といわれるものだ。 |
目的と意図と動機のある瞑想を行っているものは私ではない | 目的や動機を持って瞑想をしたり、起きることや、なることを願って悉意的に行う瞑想は二元的であり、真の瞑想ではない。 真の瞑想は二元を超えたものであるもので、根源によって起こるものである。 努力する瞑想とは、魂や想念が努力しているのであり、真の瞑想ではないものだ。 開け放たれオープンであるものが瞑想である。 真の私に対して、完全に自己放棄し、真我を受容していることが瞑想である。 これが正しい努力である。正しい態度である。 |
何かを求めている私は私ではない | 完全で、完結し、充足しているものは求めるだろうか。 求めるということは完全ではないものもの、が起こしている。 その求めているものとは、それは想念である、第1想念・魂、そしてマインドである。 |
覚醒と真我実現を求めている私は私ではない | 覚醒と真我を求めているものは、覚醒と真我ではないものだ。 求めているということは、それではないことを示している。 求めている私でないものと同一化してはいけない。求めてはいけない、すでに在るのだ。 その、覚醒を求めているものとは「気づき」ではない、気づきが覚醒だからだ。 求めるのは覚醒していない非実在の想念である魂であり、無明である。 覚醒を求めてはいけない、既に在るのだから。 |
成就し、神との一体に至ろうとしている私は私ではない | 偽の私とは、成就はしない思考だ。思考は意識ではない。 作り出された自我(エゴ)は成就しない。 成就などない、これは時間・マインドが考え出した矛盾だ 同じく、道などない。既に到達しているのに何故道があると言うのか。 方法を求めている者は錯覚している記憶の私だ、方法を知ろうとしている私とは存在していないし(プログラムが生み出している個人という記憶の塊)、それには決して至らない、既に至っているし、既に至っている私しかいないのだ。 成就し、神と一体であるものは既に今此処に在る。 成就し、一体となろうとしているものは非実在として消滅しなけれ ばならない、消滅する運命である。 それは第1想念であり、思考である無明である。 |
〜何かになる、〜何かになろうとしている、良くなろうとしている私は私ではない | 良くないから良くなろうとしている。 良くなろうとするものの正体は良くないものである。 良くなろうとしているもの、悟ろうとしている私こそが、思考の本体であり、時間の本質である。 これこそが根本無明である。 この良くなろうとするものがマインドであり、恐怖の本質である。 これが意識の座を覆っている非実在である。この非実在のマインドと自己同一化しているのが第1想念でもある。 |
進歩し、進化している、又は深化している私とは私ではない | 真の私は完全、完璧で既に完成している。 進歩し、進化するものは私ではない。それは時間である思考だ。 それは映像であり、想像されているものだ。 スクリーンに投影されている第1想念・魂に取り憑いている錯覚だ。 両方が共に投影物だ。私ではない。 |
真我探求している私は私ではない | 探求していること自体が、迷っていることを示している。 真我ではないことを示している。 真の私は探求しない。 今此処は無限の愛だけである。既に真我である。 真の自分は何も求めず自分を与えるだけである。自由と意志と完全がある。 そこには愛しかなく、与える相手という錯覚も、与えようとする自分という幻想も存在しないだろう。 |
ワンネスを考え、神を考え、真理を考えている私は私ではない | 真の私は第1想念・魂でもなく、この現象界を運営している支配者でもない。 第1想念や思考や宇宙の支配者には想像すら出来ないものである。 従って真理を考えているものは真の私ではない、考えているからである。 それは思考であって私ではない。 真理は、真実は考えられる思考ではない。 思考を超越したそれは真の私自身である、心を超えた意識である。 考えられている知識とは真理ではない。 思考でも言葉でもないものが真実である。 |
神を、未知なるものを、真理を、真我、真の私を考えている私は私ではない。 | 思考という、見るものと見られるものの分離、主体と客体の分離、我と汝の二元の中には非二元性・非分離性は捉えられない。 その聖なるものを考えていることで、真実を誤解する。 思考の終焉が真実なるもの理解の始まりである。 考えていること、それが真の私ではないことを示している。 真の私は考えられない、想像され、信仰され、思考されない、思われない、だから考え、想像し、信仰し、思考するものは真の私ではない。 思考している疑似主体が魂である第1想念であり そこに起きている思考や、想念を、「自分とは分離している対象だ」と錯覚するのだ 悪をブラックを自分の中にではなく、自分の外に見てしまうのだ。 善も悪も思考の中にだけ、いることが出来る。 |
世界平和を祈っている私は私ではない | 既に在る「実在の非分離の神の國」が、完全完璧で、愛に充ち満ちているものが、今此処にあるとき、 世界平和は既に実現している。 今・此処では既に世界平和は実現している。 なのに何故求めるのか、 錯覚である「マトリックスの虚像の世界」を良くすることより、このマトリックスは本来夢であり存在していないことを分かって貰うことが一番のするべきことであろう。 夢から醒めたこの「本当のあるがまま」こそ愛の世界であり、平和と歓喜に満ちている世界である、それが私である。 世界平和はこの非現実のマトリックスの世界にはない、夢から醒めた世界が平和の世界であり、このマトリックスをマトリックスと正見することが、真の世界平和への道である。 世界平和が必要だとされるこの世界を対象と見て、実在していると錯覚するものこそが消え去るべきものであり、非実在だ。 |
空間を移動している私は私ではない | 空間の概念はマインドという二元性によって生み出されている。 全ては今此処にあり、今此処が全てであるとき、移動するのではない。 全てに遍満しているのである。全てが吾が内にあるのである。 移動しているのは「マインドである思考」である、記憶である、心である。 時間と空間という錯覚を作ったのはマインドである。 そこを移動していると錯覚する者は、第1想念である魂である。 |
過去・現在・未来という時間を認識している私は私ではない | 真の私の中には、過去もなく、現在もなく、そして未来もないと言われている。 この今の中には時間がまったく存在していないと云われている。 時間を認識しているものはマインドであり、そのマインドの正体が時間であると言われている。 時間を生み出したのは思考だ。 |
時間を移動している私は私ではない | 時間を移動している魂は私ではない。それは時間に搦め込まれた想念であるので時間があると錯覚し、その時間というマインドの罠に捕らわれている魂であり、真の私ではない。 時空を移動している魂は真の私ではない。 |
神に懇願し、祈る私は私ではない | 私が神であるとき、果たして祈るであろうか。 私は在るのではないだろうか。 請願し、祈る者は、私ではない、魂である 分離と二元である思考によって錯覚している者である。 プログラムに従って生まれそして、真我と「一つになる運命」である魂である。 思考がないとき、その思考という錯覚が無いとき私は神である。 |
「自分が魂だ」と感じている私とは私ではない | 魂は真の私から生まれている。 それは覚者がたによって、真我から「浮かび上がった第1の想念」と呼ばれているものである。 現在の偽の私の意識は確かに意識の座を覆っており、それが記憶の塊と呼ばれている魂である。 しかしこの魂は私ではない。私が生み出した想念である。 最後は合体して消滅すべき者である。 真の私に戻ってくる者である。 これこそが魂という錯覚であるところの偽の私である、想像上の偽の私である。 |
自分を肉体だと想像している私は私ではない | 錯覚する私とは、マインドからの「身体は私だ」との思考に覆われた偽の私であるところの魂だ。 魂がこの思考と自己同一化したのだ。 そして思考の考えである「肉体は私だ」を受け入れて信じたのだ。 真の私は想像しないし、錯覚しない。 あるがままをあるがままに見ている。 だから勿論肉体は私ではなく、この身体は自分の表現体だと知っている。これが分からないものは真の私ではない魂だ。 |
幽体離脱して、肉体や世界や意識界を知覚し、体験している私は私ではない | 肉体を上から見ている離脱している私は、勿論真の私ではない、思考に覆われ、記憶である魂が幽体に移って見ているのだ。(しかし、まだ魂は肉体の頭脳に縛られている) この魂は自他の分離に覆われてしまった。 この魂とは、分離の全くない真の私ではない。 |
テレビや新聞や本を見て、影響を受けているものは私ではない | テレビや映画の波動を受けたり、場所や次元の波動の影響を受けている私とは、その波動自体でもある。 水は波動の影響を受けても、それを映しているに過ぎないように、本当は波動を映しだしてはいても本性は影響を受けることはない。 |
やってきている思考や想念や、感情を対象として見ているものは私ではない | そのやってきている、あるがままのものを自分以外の対象として認識し、それを外部だと認識して、排斥したり、非難したり、逃避したり、一体化しようとしたり、善悪などと判断しているものこそが想念である魂なのだ。 |
知識や概念や思想や情報を受け取って認識して、理解している私は私ではない | 真の私の認識の仕方とは、思考のように時間の経過を含まず、瞬間に全てを一遍に、同時に理解する。過去や未来に同時に存在している。 知識や概念や思想や情報は受け手である想念である魂が、時間を媒体に一つづつ認識していく、これは真の私の理解方法ではない、思考の認識方法だ。 |
親や子供や兄弟や味方や敵を私ではないと思っている私は私ではない | 私とは親であり、子供であり、兄弟であり、味方であり、敵であり、泥棒であり、好きな人であり、嫌いな人であり、上司であり、部下であり、全ての人や生物や無生物である。 |
神を自分以外の存在と思っている私は私ではない | 名付けられない至高なる絶対者は、全てであり分離していない。 全てが絶対者であるとき、この絶対者がそれ自身を認識しているとき、神以外に主体があるだろうか。 |
この私が神と一体であると考え、我は神であると思っている私は私ではない | 我は神であると思っている者は思っていることが、思考なのであり即ち神ではないことの証拠である。 思うことが「我は神なり」を否定してしまうのだ。 想いというマインドの中には真実はなく、神もない、従って真の私もない。 思いが全くないこと、思考が終焉した中にこそ、絶対なる状態がある。 |
私は真我であると想像している私は真我ではない | 真の私の中には、自己は勿論存在しない。 自己は完全に無く、 全てが、全てとして在るとき、それこそが真の私である。 |
他人は私とは別だと思っている私は私ではない | 他人を自分そのものでないと想像している私とは、思考である自我(エゴ)に過ぎない。 他人が私ではない、と信じることは錯覚であり想像だ。 他人こそが私である、私は貴方である、貴方は私だ。 |
自分を思考や感情や記憶や想念と同一視している私は私ではない | 思考や感情や想念は意識の座に起こっているものである、 それを自分自身と錯覚している者こそが第1想念といわれている魂であり、この魂が、そのやってきている思考を同じ思考である二元性に捕らわれて分離してみているのだ。 この魂こそが、真の私からわき起こっている迷える子羊という偽の私、即ち私たちであり、わき起こる思考を映しだしているスクリーンのなかの登場人物と自己同一化している魂である。 これは真の私ではない想念である、魂だ。 |
世界や宇宙が自分ではないと想像している私は私ではない | 世界や宇宙を自分の中に在ると感じていない私は真の私ではない。真の私の中に世界も宇宙もあるのに、思考は自己と分離して外界にあると想像する。 そして魂はこの思考と同一化して、自分の外に世界が有ると思ってしまう。 |
私は特別だ、一番だ、他より優れていると思っている私は、勿論私ではない | 貴方が私であり、私が貴方であるとき、何処に自慢する個人や人格が存在しているのであろうか、比較することも計測することも出来ない全体が私である。 この高慢も自意識過剰もやってきてる思考だ、そして魂がその思考を受け入れしまうのだ |