マインド、それは自他を分離するもの


マインドは虚偽である

マインドとは二元性であり分離性であり、時間である

マインドとは「~なる」こと、良くなること、達成すること、実現することである

マインドとはこの二元性ゆえの自他の分離であり、私とあなたの区別をするものであり、その区別をされるものであり、その認識である,

そしてこのマインドは条件付けられた頭脳を経由し記憶の固まりである自我(エゴ)を創り出した

そしてこの自我(エゴ)の固まりが魂とよばれ、輪廻転生を続けていると錯覚している

そしてこの区別と分離の認識が「~なる」という錯覚、「良くなる」という錯覚、「悟り」「真我実現」という錯覚を生み出した

真実は、既に悟っている、既に成っている、既に完全であり、既に真我である

成ろうとして藻搔いている私は、マインドが条件付けられた頭脳を経由して意識の座に届いた思考である

解脱しようとしている私とは頭脳が生み出した思考に過ぎない

その思考と真の私を同一視しているに過ぎない

この思考が創り出した自我(エゴ)である私は、自分が全体から分離していると錯覚している

自分自身を含め親や兄弟や子供や隣人や同僚や全ての人と分離していると錯覚している

そう思うのは、それが条件付けられた頭脳が生み出した思考に過ぎないからである

自他の分離とは、条件付けられた頭脳が生み出した錯覚に過ぎない

個人という人格は、そして個別的に進化していると思う個人の魂とは、条件付けられた頭脳が生み出した記憶が

そう錯覚しているに過ぎない、そう信じているに過ぎない

分離、区別は錯覚に過ぎない

私という個人も、あなたという個人も頭脳を経由した思考が思っている単なる錯覚に過ぎない

自他の区別とは、自他の分離とは錯覚である、存在しない

この区別と言う分離の感覚は身体の五感をその基盤として拠り所にしている

この私たちの五つの感覚は、この条件付けられた頭脳を経由しているため「分離している」という五感を発生

してしまい、真の姿である全体性を、非二元性を、そして一命一体も、「真のワンネス」も、真の見ることも、

聞くことも、感じることも出来ないでいる

そしてこの五感が

区別と分離を助長させ、その分離を確定し、強固なものとしてしまう、その結果更に自他の分離という思考の

錯覚、マインドの罠に深く深く陥ってしまう

自分は生まれた、自分はそして死ぬなどと言う、肉体の状況と自分を全く同一視したり

クンダリーニやチャクラの開花という、『「肉体以外の他の身体」の機構』と自分を同一視して、

自分ではないものを一生懸命に自分と錯覚し、

既に悟っており、全体そのものであるにもかかわらず、

悟ろうとしたり、チャクラを開花させようと錯覚するのである、

そしてその結果、藻搔くのである

チャクラを開花させ、クンダリーニを上昇させるであろう『「肉体以外の他の身体」の機構』は、私とは関係がない!

それは私の現象界での乗り物である「器」であり、その器は決められている物語のストーリーに従って、

正確に決まったように、出来事を迎え、生まれ、そして成就し、死ぬ

それは私ではない、それは私の器であり、器は根源の使っている道具であり、それは、

この現象界で起こるように起こる出来事であり、肉体の条件、他の身体の条件に従って、

物語は決まった、決められたように伸展していく、

勿論、それには、この身体も含まれている、頭脳も含まれている

それはこの現象界の出来事であり、私という時間と空間を超越した全体である「気づき」とは、全く関係ない

と言うより、

それはそもそも「この私」という全体であり、過去現在未来を超越した「気づき」が存在していなければ、

この現象界という夢も存在することが出来ないからである

そして
この夢である、錯覚を根本から支えているのが頭脳を経由した五感である

この五つの感覚は二元性からであり、マインドが肉体頭脳を使って、

そのような誤った五つの感覚を発生させているにのに過ぎない

マインドという二元性の意識の特徴は思考である、そしてその思考の感覚は私という個別感覚であり、

進歩しているという錯覚であり、自己関心である

では、その頭脳の条件付けが生み出した思考の働きとは何か

思考とは、本を読むように時間の流れの中で部分のみを限定された状態で認識していく方法である

また、思考は私という観察者を生み出す、

そして見る者と見られるものという主体と客体を生み出し、分離を生み出す、

私という個別感覚を生み出す

これに反して「気づき」は、頭脳を経由しないで、直接に意識の座に働きかけ、

その「気づき」により、逆に頭脳を変えていく、

そしてその結果、頭脳は条件付けを解かれ変換し、従来の流れが逆転し

ハートという意識の座からその条件付けを外された頭脳を使用して、

この現象界と言う夢の世界に「真実の愛」を(気づきの本性であるところの)放つことが出来るように成るのである

その気づき(全体である真の私の意識)は

上江洲義秀先生を見ても分かるよう全体の全てを瞬時に時間をかけずに理解する

一瞬にして何千人を同時に、その人間の全てを認識してしまう、「あなたである私自身」として

なぜなら上江洲義秀先生においては私の中に全ての人がいるからである

しかし現在の私たちの「意識の座」は覆われている

思考によって、「自他の分離」という自我(エゴ)の錯覚によって

現況としてはそういうことであるので、マインドは思考を使って「気づき」を覆っているのだ

このマインドは「気づき」の属性である、平安と静寂そして沈黙、歓喜、愛であるのに

反して、不安、恐怖、悲しみ、苦しみ、利己主義、自己関心、暴力、自己感覚、そして優越感であり、身体感覚である

この現在の地球がマインドの上に成り立ち、マインドが地球を覆っているレベルである以上、いかにそのマインドが洗練され高級になり、美しく着飾ろうとも、その本質は悲しみと自己関心、そして恐怖、暴力である

私たちはマインドを受け入れてはならない

この錯覚をする、思考を受け入れてはならない

一瞬たりとも、自他の分離、自己関心である思考の錯覚を受け入れてはならない

錯覚を錯覚と見なければならない

なぜなら、このマインドである思考と時間感覚とは実相を覆い隠している闇であるからである、虚偽であるからである

それらは本当の私たちの姿である自他一如、全体性、非分離性、非二元性、歓喜、愛、平安を隠し覆っている霧であり、虚偽であるからである

私たちはマインド・思考を受け入れてはならない

生まれていないのに生まれたと思ってはならない
死んでいないのに、転生という死んだことがあると思ってはならない

虚偽を虚偽と見なければならない、悲しみと苦しみと恐怖と暴力の中で生きてはならない

私たちはマインドをマインドであると見なければならない、それは意識の座の気づきという全体を覆っている錯覚である

輪廻転生している魂である私、
成長して輪廻から解脱する私、
クンダリーニが上昇して全てのチャクラを開花させる私、
ワークをして自己想起を行い悟りを開く私、

それらの私とは時間というマインドが生み出した最大のトリックである、成就する私、解脱する、悟りを開く私は、実在しない虚偽の私であり、それは真の私ではない

私は既に「在る」

と、そのように老子やシャンカラやラーマクリシュナやラマナ・マハリシやクリシュナムルティーは言われる
各人の表現と力点が異なるだけで、同じ事を教えられておられるのである












戻る