私達は乞食ではない
一昨日、上江洲義秀先生は
悟りを乞食のように求めている私達を指してそのように言った
「私達は乞食ではない」
これは、マインドからの言葉ではない
通常、私達は自分を乞食であるとおもっているので
乞食として、愛を求めたり、神を求めたり、悟りを求めたりする
しかし
求めることは
マインドからの働きである
ところで
「私は・・・でない」と否定的に肯定することは
真我を暗示し指し示している
それに反して
私達を「私は・・・である」と、そうであると、断定することは
マインドからの働きである。
「私は・・・・・・・・である」は正確ではない。
私達は
「私は・・・・・・・である」と、言うことは
私達を規定してしまう。
それは真我の道ではない
ここは慎重になるべきである
「私は・・・ではない」、は真我への道を示している
「私は・・・である」は、マインドからの働きである。
従って
私は現在の状態を
私は「眠っている」「見ていない」「目覚めていない」は否定的に真我を暗示し指しているが
しかし
私は「盲人である」と断定してしまうことは、マインドからの働きである。
自分を規定してはならない。
自分を分類し、レッテルを貼り、断定してはならない。
断定し、レッテルを貼ることは、真我からの動きではない。
私を「・・・である」と断定してはならない
私を「・・・である」と断定し、レッテルを貼ることは、マインドの働きである。
「私は・・・ではない」、が正しいと思う
私は「愛がない、愛ではない」のではない。
私は「愛」であることに気づいていないのだ
私は「分離・二元性」ではない
私は「非分離・非二元性」に目覚めていないのだ
私は「糞尿」ではない
私は無限の宝物であり、すべてのそのものであることに気づいていないのだ。
私は「暴力・恐怖・不安」ではない
私は「歓喜・平安・全体性」そのものであることを思い出していないのだ。
だからマインドから
レッテルを貼ってはならない。
そこを上江洲義秀先生は指摘されたのだと思う
私達は乞食ではない、ということはすでに持っていることに気づいていない、ということなのだ
あるいは、その“持っていない「自分」は存在していない”ことに、気づいていないのだ。
悟りを求めることは乞食である
恩寵を求めることは乞食のすることであるという
これは、悟っていない「マインド」である分離感から来ている
「悟っていること」「恩寵そのものである」に気がついていないのだ
絶望も同じように
悟っていない「マインド」である分離感から来ている。
絶望しているのはマインドであって真我ではない。
実は絶望する心は、マインドが作り出した個我のイメージに過ぎない
それを
深く、迷妄に陥り、自己同一視して
その分離感を自分と錯覚しているのだ。
同じように悟ろうとすることも、悟っていない「マインド」である分離感から来ている。
それを悟りを与えようとすることで
私達を乞食にさせている、乞食であると錯覚させているというのだ。
真我の人は悟りをお金で与えたり、欲しいからとて、その欲望に応えて、ただ単には与えたりはしない。
本来はそもそも
悟りを与えるべき所の相手である、悟っていない人そのもの自体が存在しないからだ。
現象界における開花である悟りは
完全な自動的なプロセスである。
早めることも
遅めることもできない。
完全な叡智でプログラミングされている。
私達でどうにかなることではない。
開花は自動的である。
内なる真我が全てを知っているのだ。
開花を早めたりしたら、落下して樹から熟さないうちに落ちてしまう。
開花は、一番いい時期に必ず起こり、そのときに実を結ぶ。
求める必要はない。
求めること自体がマインドの働きである。
悟りは完全なプロセスで自動的に行われる。
私達が行うのではない、叡智そのものである真我が行うのだ。
時期が来る前の悟りの伝授や、金銭による悟りの伝授は
私達を乞食にしてしまう。
悟りは真我から、内側からやってくる。開眼である。
それは
外にある、或る存在からからではない
この行う恩寵は真我からである。
恩寵を金銭の代価に貶めてはならない
恩寵は金銭では左右できない
恩寵は既に限りなく豊かに注がれている
なぜ、ハートに存在する至聖なるもの、限りなく愛その者である真我が私達にあふれる恩寵を与えていないことがあるだろうか
それを
私達は金銭や或る外部の存在から与えられるものと錯覚している
既に
恩寵は限りなく私達に真我から無限に与えられている、無償で、豊かに
既に与えられている
気がついていないだけだ