求めている私とは誰か(霊的野心は誰が抱いているのか)
マインドの迷妄から、自我(エゴ)の錯覚から醒めようとしている私とは誰でしょうか
空であり普遍絶対の意識である神と言われるそれと一つになろうとしている私とは一体誰でしょうか
色んな修行をしたりして、神聖で至高なる知識や智慧や理解や体験を求めている私とは一体誰でしょうか
このマインドといわれている現在の意識状態から高次の超感覚やワンネスの気づき意識・宇宙意識に至ろうとして努力し瞑想をしている私とは一体誰でしょうか
前回の日記でも紹介したように、先日お会いした彼は小学生の2年生から「私が存在していない」ことを知っていました
彼は小学生の2年から「この至ろうとしている自我(エゴ)」が存在していないことに驚愕していたといいます
しかし、実際にそのことが稲妻のように、「今」として「悟得」されるまでは、想像を絶する苦難があったと言われました。
そして20歳の時に、家族を養うための労働でのハイスピードで作業をしている中に突然に、その「最初から私は存在していなかった」の「悟り」がやってきたと言います。
では一体、誰が悟ろうとして(覚醒しようとして)、瞑想し努力しているのでしょうか?
そして
その霊的野心に気がついているのは誰なのでしょうか
私には霊的野心を持ている者とはこの私である自我(エゴ)であり
その霊的野心に気がついているのも自我(エゴ)であると思われます
具体的に言うと
霊的野心を持っているもの、そのものがこの霊的野心に気がついており
それに対して
霊的野心は持ってはいけないとか、そのことを非難したり
霊的野心という自我(エゴ)を受け入れなさいとか言って
この野心に対して何かの行動を起こす「私」ではないかと思います
此処は大切なところであると思います
上記の彼に於いては
この「真我意識・宇宙意識・空」が悟得されたのは、
実際には「空が悟得された」のではなくて
その「空の悟得」を邪魔していた「自我(エゴ)というマインドの非実在」が悟得されたのであって
この超越的な実在である空の悟得とは最初からあったと言うことだと思います
それを見る事を邪魔していた自我、そしてその自我ということへの最終的見解である、「自我(エゴ)というものは最初から非実在であった」
という真実の認識(悟得)が20歳の時に彼の魂の顕在表面意識に起こったと言うことだと思います
それは即ち現象的には
彼の魂が充分に成長して、自我の非実在という真実を悟り、魂の内部に更に下降し
そして
魂の内なる本質である「空である意識(観照者)」に触れて、融合した
と言うことが「起こった」のでしょうか
それは起きたことであり
自我(エゴ)の野心や、魂の求めで実現することではないのだと思います
その実現という起きたことは畢竟するに
「空である実在である意識」の設計図によることなのではないでしょうか
クリシュナムルティーも「瞑想とは、することではなく起こることである」と言われております
ですので此処でのキーポイントは
この「自我(エゴ)は最初から存在せず、空は今此処に最初から実在していた」という「悟得」ということが魂に起こったと言うことだとおもわれます
その「悟得」とは、魂がそれを求めた結果で実現したのはありませんし
(何故なら、実現するしないに拘わらず既に、魂の奥の本質そのものが空である無限の意識であるからだと言われていますし)
まして
自我(エゴ)が努力して、自我(エゴ)が瞑想して、その「悟得」を獲得したのではありません
それは、その悟りとは既に、最初から実現しているのであり、そもそもの最初から自我(エゴ)はいなかったのであるということです
その点を672夜さんは「自我として自我のために修練するのか、それとも、自我の誤謬を見ることでその役目を終わらせ、新たなる内在の意志へと己れを明け渡すのか、」と言っております
ここで以上の点を要約すると
現在の私たちの意識レベルとは
T:テオーシス(完全なる合一、全てが全てにある次元・「われはそれ」の意識、真我の状態)
でもなく
U:真のアチューメント(対象との完全なる一体感、対象が私として感じ、行う次元、観照者としての感覚)
でもなく
V:超感覚(霊感ではなく、時々、時空を超越して対象自体として感じ、思うことのできる状態・次元で、魂自体としての実感、自分の感覚が身体を超えて何キロも広がり自分の中に街や人が有る実感)
でもなく
W:この五感(肉体の感覚)や霊感(幽体や霊体としてのある程度の時空を超越している感覚だが肉体感覚と同じ次元である)であるという
スタート地点にいるレベルだと言うことです
聖なる御方々は上江洲義秀先生を始めとして、自由にこのT〜Wまでの視点(焦点)を変換し合わせることが出来ると言われます
けれど私たちに於いては、Wという最低レベルの感覚に覆われ、縛られて「自由というものを見る事」が出来ないでおります
そして、それ故に
自我(エゴ)の意識を自分の意識であると錯覚してしまい
外部からのフォースで自己が霊的進化を促進できるという(自己の魂が自己の意識的な超努力に関わらないで進化するという)錯覚を信じ込み、○○○を受けたり、○○○をしたりして
魂とは進歩して、最後は成就していくのだと思い込むのです
果たしてその進歩し、良くなっていく魂とは誰なのでしょうか、最後は成就するのでしょうか、それともラマナ・マハリシのいうようにそれは最終的には存在していなかったのでしょうか
本当の魂の奥にある真の私は進歩したり、進化するのでしょうか、それとも既に完成し完全完璧なのでしょうか
究極においては、私は魂なのでしょうか、それとも真の私とは「見るものは見られるものであり」、この魂とは
真我から立ち現れた概念、第1想念なのでしょうか
第1想念であり概念であり、魂である私が進化し、進歩し、最後は神と合一すると錯覚しているのです
深化し、進歩していくのは魂であって、魂の元である、真の私ではないと思われます
覚者方の言われるように、真の私は既に今此処に在って完全完璧なのであると教えられております
ラマナ・マハリシはこのことが悟られるためには、第1想念である、根源の私に至り、その時その私は存在していなかったことが判明すると言われております
と言うことは魂は最終的には、到達するのではなくて、第1想念・魂は究極的には本来、存在せず、魂を生み出していた真の私だけが全体として始めから完全完璧として存在していた、と言うことだと思います(この究極の真の私のことを真の魂と表現されている場合もあります)
では、現在のレベルでの私たちにとっては、この現象界にて意識されている現在の意識とは一体何処の意識なのでしょうか
この意識されている現在の顕在意識とはどの私の意識なのでしょうか
それは
魂の意識であるのか、それとも、自我(エゴ)の意識であるのか、若しくは、外部からやってきているプログラムとしての招き起こされている思考や感情や想念などの意識なのでしょうか
現在の意識で認識されている事とは
全てが起こっていることであり、自我(エゴ)も含めて全てがやってきて起きていることであり
認識し、体験することとは、これを起こしている原因ではなく結果であると言われております
原因とは真の私であり、空間と時間を超越し、遍在し、あらゆる時にも存在している未知なるものであると言われております(この真の私の意識が基底にあるからこそ、現在のスクリーン上の「マインド意識」もあることができるのだと言われております)
真の原因である私、これこそ未知なる真実の私である意識だと思います
そう言うことであるので
現在のレベルであるこの「五感や霊感の知覚段階」の私にとっては、如何に自分が行為し、自分が生きており、自分が個人であり、進歩し、最終的に成就すると信じ込んでも
実際には
何もしておらず
何も行っておらず
何処に行くこともなく
何にも成る事もないとそのように教えられております
それ故に
やってくること、起こることの全てを感謝して受け入れ
起こっている出来事やカルマや肉体や思考や感情や恐怖や不安やそれら全てを受け入れ、その中に入っていくということ
あるがままをあるがままに受け入れ(恐怖や暴力を恐怖・暴力とこのように命名せず、分類もせず、非難せず、同一化せず、その恐怖の中に、自分がその恐怖自体として、恐怖として感じ、その恐怖を味わい、その恐怖に入っていくとき、「大いなる変換」が起きると言われています、これは別に恐怖に限らず不安や暴力なども同じです)
即ち、やることは何もなく、全ては完全に為されており、達成し実現することも何もなく、全ては完璧に為されていることの中に入っていくとき
そして更に
このやってきていることについての拒否と非難と受容とを繰り返している自我(エゴ)そのものをも受け入れ、その自我の錯覚をも受け入れて、ただただ感謝すること
何かに対しての「だからする感謝」ではなく、内側から自然に起こるところの、自身が感謝そのものであるとき
神に至ろうとする霊的野心を霊的野心自体として、その霊的野心に思考なく入っていくとき、そして霊的野心を受け入れるとき
672夜さんは大いなる変換と奇跡が起こると言われております
http://www.672ya.com/2008511/#more-80
全てを受け入れ、自然に起こる無我からの感謝であるとき
もう何も求めること、願うことはなくなり
もう何かに至ろう、実現しようとしなくなり
ただただこの現在の起こっていることの中に
静かに、沈黙して何もせずに
安らぎ、知足安分し、深く満足しているとき
自然に沸き起こる感謝しかないのではないでしょうか
そのとき
私は存在していない、が起こる可能性が有ると言われます