他の教えを非難するな


「他人に対して、他の教えに対して、悪いとか低いとか高いとか

意見を持ったり、考えを、持つことが、そのことで自我のマインドであることを証している」
とマクドナルドベインは言う

その自我であるからこそ、他の人のことを良いとか悪いとか判断し、他の教えのことをレベルが低いとか

高いとか思考を働かせるのである、

その思考と言う自我がそれらの考えを持つのである

他人を評価し、他の宗教の等級を付けるという考えを持つことがマインドであり、その思考の記憶である自我の

最大の特徴であると


そして同じように自我という記憶であるもののもう一つの最大の特徴は時間の認識、即ち過去を思い、未来に思いを馳せ

過去を思いだしたり、未来のことを心配して不安になったり、思い煩ったりすることであると、

その過去や未来のことを考えると言うことが、思考である自我の記憶の特徴で有ると言うことである。



マインドだから、自我だから、記憶だからこそ、過去を想起し、未来のことを考えたりすることが出来るのである

逆に言うと

真の私の中には思考もなく記憶もないので、一瞬に全てを完全に理解してしまい、過去を思わない、未来を心配しない

正確に言うと過去を思ったり、未来を心配したりしないのである、何故なら時間がないからだ

私であるなら過去を思い出したり、未来を見たりすることがないのである

未来も過去もマインドの中にだけあるからだ、時間と自我の中にのみ過去の想起や未来の心配はあるのだ

時間は私ではないもののなかにのみ有るのではないだろうか、

真の私の中には今しかなく過去も、未来もないといわれている

そしてその今は愛そのものであると言われている


同じくマクドナルドベインは愛について言う


「私達が愛している、愛を放っている、そして愛を受け取っている実感しているときには愛がない、それは愛ではない

私達が愛を受け取るのではなくて、愛が私達を受け取り所有するのである

そこには、愛する私もなく、愛の対象のあなたもない、ただひとつ愛のみがあるのだ」



マクドナルドベインは同じように「キリストのヨーガ」の中で「虚偽を虚偽と見る事の中に真理は顕現する」と言われている

虚偽であるものとは分離であり、本来ひとつであるものを(全体で分離できないのに)、見る者と見られる者に分割していると

錯覚することである(そしてこの根源的な錯覚が三界を出現させている)

だから対象としてあなたを、対象として全ての人を見てしまい

私の目の前のあるがままをあるがままに「対象としてではなく私自身」として見ることをしていないことが自我という記憶の特徴であり、

虚偽であることなのであると

その本来ひとつで在るものを分離していると思い込み、見る者と見られる者に分離し、分割してしまったマインドとは観察者でもある

その観察者とはひとつのあるがままを観照せずに観察者と観察されるものに分割し分離してしまったからだ


同じくマクドナルドベインは言う

「観察することが出来るものは実在ではない、観察することが出来るものとは、即ち観察されるものである観察者の投影であり

実在とは知ることも観察されることも出来ない、観察されるものが観察するものであるとき、正見によってそれらは共に

消滅する」



そしてその観察者と観察されるものとに分割しているマインドとは「なりたいという欲望」でもある、それは時間であるからである

「その「成りたいという欲望」がなくなって初めて、これらの意識層は空になるのである

成ることで得るものは灰燼であって「実在」ではない」


この意識層が空となることを

キリストは新しい葡萄酒が注がれるためには、古い葡萄酒を捨てて「葡萄酒の革袋を空にしなさい」と言われたのだ









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