身体感覚の消失


ラマナ・マハリシは

「霊性、真我、源の中に溶け去り、身体感覚が消え去るまで、新しい身体(久保注:転生のサイクルに入ってしまうこと)
は常に手に入るだろう」


と言われている

また輪廻という虚偽のサイクルを起こしている根源的な渇望に関しては、次のように云われている

「生命と再誕生への渇望は、絶対的な存在、サットである生命の本質そのもののなかに本来備わっている。

本質的に不滅であるにも関わらず、はかない道具でしかない身体との偽りの同一化によって、意識はそのはかなさと同化してしまう。

それが誕生の連鎖という結果をもたらしたのである。

だが如何に果てしなく転生を繰り返そうとも、いつかは終焉がおとずれ、唯一永遠の真我に明け渡すときが来るのだ」


「真の再誕生とは自我(久保注:エゴ)として死に、霊性(久保注:全体・ただ一つなるもの)として再生することである。

これがイエスの磔と復活の真意である」


「偽りの同一化を捨てなさい。

そして真我なしに身体が存在することはできないが、真我は身体なしでも存在すると云うことを覚えておきなさい。

事実、真我はつねに身体なしで存在しているのである」


このように真我からの発展的プロセスの中で、具体的に私たちの道程を自照的に明らかにしていることが

この身体感覚の消失ということではないだろうか。

身体の感覚の消失とは、ハッキリと、自己からの解放が着実に行われているプロセスが、この特定の個体に起こっていることの証明となるのではないだろうか。

此処でラマナ・マハリシは言及されてはいないが

身体感覚の喪失とは、同時に自己感覚・自己意識(分離意識)の喪失でもあることだろう

「私が」
「私に」
「私の」
「私は」という自己・自我(エゴ)を中心とした自己という感覚と意識が消失されていくプロセスでもあることだろう。

それはまた同時に、この自己感覚の投射でもあり、他者といわれる「自己と対峙・分離している他己」という感覚の消失でもあることであろう。

それはまた、自分が関わっているこの特定の肉体や、環境や、出来事や、経済状態などとの関わっている感覚の変化、

即ち、対象として知覚されている肉体や出来事、経済状態、環境などの実在性感覚の希薄化が起きてくると云うことではないだろうか

肉体や他人や出来事や運命や起きることや環境や経済状態や社会、世界が外部ではなく内部として実感されてくると云うことであるのであろう

それこそが自分と対象との壁が徐々に壊れていくことであろう。、

それはまた、自分の身体の境界が曖昧になり、どこから何処までが一体自分の肉体であるのかが判然としていかなくなると云うことであろうか

思考や感情や欲望や想念をそして知覚も、意識も何処から何処までがやってきた私の思考であり、相手の思考であるのかの区別するをすることがなくなってくるのではないだろうか、それらは共にやってきては流れ去っていく一塊の雲のように感じられてくるのであろうか

路傍にそっと咲いている花を見ている自分が花なのか、それとも花が自分なのか

風にはためいている旗を見ている私は旗であるのか、それともその旗が私なのか

大空を自由に飛んでいる鳥を眺めている私は鳥なのか、それとも鳥がわたしなのか

私の前の立ち向かうその相手は私なのか、それとも私がその相手なのか

車を運転しているこの私は車なのか、それとも車が私なのか

この肉体は誰なのか、空腹を感じ、痛みを感じ、又は喜びを感じている、この特定の肉体の知覚は、この肉体の感覚は、この特定の肉体に起こっている感覚であり、私とは関係がないのではないか

悩み、苦しんでいるこの自分は私ではない、この苦しみ、この恐怖、このイライラとは、やって来ては、去っていくが、私とは関係していないのではないか

人から罵倒され、傷つかされ、騙され、痛めつけられても、その罵倒し、傷つけ、騙し、痛めつける相手とそれをされているこの自分の境界が消失してしまい、どちらが罵倒しているのかが明確でなくなり
罵倒することも、されることもなく、傷つけ、傷つくこともなく、騙し、騙されることもなく、痛を与えることも、痛みを感ずることも私とは関係しなくなってしまった


などという、近頃の色んなホームページでよく良く散見されている「自己感覚の消失」というプロセスが起こらない限り、

私たちは輪廻のプロセスに陥っている、ということになるのではないだろうか

この中で特に、この真我へのプロセスが起きているということが、ハッキリと自分で証明されることとは

自己を中心とした心配から解放されていることであり、

自己関心や自分がどう判断され、どのように思われるか、どの段階にいるのかなどの自己中心性から解放されていることであり、

自惚れや、パワーやプライドから解放されていることであり

想念や思考や感情から、この現在意識から解放されている事である


自己存在感が薄れていること、

肉体の境界がハッキリとしなくなっていること、(自己が拡がってしまい街や都市まで拡大してしまっていること)

従って自己と他己との境界もハッキリとしなくなること

相手のことが男なのか女なのかが、年を取っているのか若いのかなどの自他ともどもの身体認識が徐々に薄らいでいくようになっていくのではないか

感情や思考からの解放、恐怖や怒りやイライラからの解放は、必ずやこの私と言う自己のプライドからの解放、劣等感や優越感からの解放、そして具体的な身体感覚の消失などを伴うはずである

この肉体感覚の消失とは何か

空腹感、や暑さや寒さの温度感覚、睡眠などによって影響を受けなくなってくること等の変化

痛みや、快感や、味覚、触覚の影響を受けなくなってくること

性欲や食欲、睡眠欲からの解放、そしてこの身体感覚からの解放というプロセスが進行し始めて


最終的には、ラマナ・マハリシの云われるように「身体感覚の消失」が起こり

「私は肉体ではない
私は幽体や霊体でもない
私は個人でもなく・人格でもない
私は思考でもなく・感情でもない
私・自己とは概念に過ぎなかった、自己とは想念でしかなかった
私・自己は存在しない、存在していなかった」

という、実際の身体感覚の消失や個人感覚や自己感覚の消失という知覚の変化に裏付けられて、その結果としてこの宣言に繋がっていくのではないだろうか

従って、具体的なこれらの身体感覚の消失や、自己感覚や自己関心の消失を伴わなければ、真我のプロセスが発生していないということになってしまうのである。

この間のことを明確に述べているのが道元である

「仏道(真我探求)を歩むとは自己を忘れる事である」

そして

「自己を忘るとは万法に証せらるなり(自己を喪失するということは、自己の感覚が消失し、対象との一体感が起こる事である)」

さらに

「万法に証せらとは自己及び他己の身心をして脱落せしめるなり(対象との同一感が起きることとは、自己及び他己の身体・そして自他のマインドが脱落することである)」

そして
「身心脱落、脱落身心」

という逆説的弁証的発展を説いている






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