神やグルを識別しようとすることは
私達が二元性の罠に捕らわれている証拠だと思います
非分離性の中で、それは
自ずとそれ自らがその素性を語り出すものだと言われております
非分離性の中では
質問自体が答えではないでしょうか
私達の判断というのは
相手を(それがカルキであれ上江洲義秀先生であれ)
我々の判断の基準で善悪又は等級を付けることを指しています
これは正しい識別ではないとおもいます
善悪の基準で相手を識別したり
等級のレベルで相手にレッテルを貼ったり
真偽でレベルをはるのは
それは自分を投影しているのに過ぎないのだとおもいませんか
善悪や等級や真偽やレッテル貼りレベル貼りは
二元性の中にのみ存在します
分離性の中にのみ存在します
それがマインドの行為です
どちかが正しいのかという質問は
その質問自体が
善悪の分離性から
二元性からマインドから発せられております
ですので
グルや神の
相手を判断することなく
私達自身が
マインドであるところの
分離性無く
二元性無く
自分が分離性、二元性そのものであることの認識の中で
自分である相手を見ることではないでしょうか
カルキも上江洲義秀先生や神もないのです
勿論私もありません
その気づきをもたらすことが先決であり
カルキや上江洲義秀先生や神をマインドで判断することは
二元性の罠に陥る危険性が在ります
グルへの
判断はマインドが行おうとしているのです
ジャッジはマインドが行おうとしているのです
自分自身がジャッジであり判断のマインドであるとき
カルキや上江洲義秀先生や神は外部にいるでしょうか