外部は内部だ、そして内部は外部だ

これは有名なニサルガダッタ・マハラジの言葉だが
クリシュナムルティーの「見るものは見られるものである」とまったく、同一の状態を指し示している、と思う

その状態とは、即ち「気づき」という意識状態、心身が脱落した状態、非二元性、非分離性の状態であると思う

まず初めに「外部は内部だ」との外部とは、外界とは、

この二元性であるマインドが見ている世界(現象世界)とは、マインドという主体が自身を認識するために外部として客体として投影されている状態を指しているのだと思われる

この状態をうまく言い表してる言葉が「立ち向かう人の心は鏡なり 己が姿をうつしてやみん」であるけど、

この言葉では、この外界という鏡に反映されている内部であるところの“自己を見ている「私」”とは何かが説明されない

この内部を認識している自己こそが、第1想念であり、意識になかなか現れない、隠された願望と、隠された動機を持つ、自我(エゴ)という記憶の固まりである

だから

この外界という、立ち向かう人の心を鏡として自己を映している状態を見ている「私」とは何か

これが問題である、
この自我(エゴ)とは個人ではなく、個人の自我(エゴ)だと思っている、全体のマインドである
その全体のマインドがこの肉体の頭脳を経由して「個人」だと、一生懸命錯覚しているのに過ぎない
マインドの全体であるのに、この頭脳を経由したマインドの個別記憶が名前や肉体と同一視して、分割された主体を人格や
個人と思っているに過ぎない

さて前記の言葉のうち
立ち向かう人とは、家族であり、兄弟であり、近所のおじさんや、職場の上司や部下であり、社会であり、世界であり、宇宙である

そうであるので、私とは実はこの諸身体と同一視した単なる記憶の固まりという自我(エゴ)であるのではなく、もっと大きな全体としての頭脳である事が分かる

だからこそ、外界という世界を認識しているのだ、社会を認識しているのだ、地球を宇宙を認識しているのだ、外部に投影して

内部に自我(エゴ)があり、家族があり、社会があり、世界があり、地球があり、宇宙があるからこそそれを外界として認識しているのだ

内部とはマインドであり、二元性である

マインドである二元性という時間が、外部と内部に、それ自身を分割して、自身であるものを外部に投影しているのだ

じつはその外部は外部という対象や客体ではなく、内部なのだ

そしてこの内部というマインドこそ

それこそが根本の錯覚であり、根本の夢であり、根本の幻覚であり

根本の無明状態、即ち、ないものを有ると見ている根本のマインドのことだ

根本の無明のマインドが私たちの目を通じて自身を分割して見ているのだ

そして単なる投影であり、幻想に過ぎないもの、この映し出されている状態を、現実であり、実在であり、存在していると錯覚しているのだ

これはマインドというフィルムによって上映されている状態である、

この状態を私たちは二元性の網で捉えられた知覚でもって錯覚し

外部に実際に存在していると思ってしまう、

これが夢見ている状態、これが現象世界であり

根本マインドが投影した、本当は存在していない世界であり、宇宙だ

そして、この頭脳を経由した私たちの記憶が、個人的な人生を歩んでいると思っているに過ぎない、

そしてこの巨大な幻想のシステムを維持し支えるために個人という錯覚がマインドによって生み出された

輪廻転生して最後には真我に至るという錯覚が生まれた

これが私たちの転生であり、生まれ変わりなのだと思う

実際は既に真我そのものであり、私たちは個人ではなく全体であるのに

輪廻転生している個人である魂だと錯覚され

そして私たちは悪戦苦闘し、この夢の中で、幻覚の中で藻?く
「良くなろう」
「進歩しよう」
「安全でいたい」
「安心したい」
「確実でいたい」
「悟ろう」
「愛深くなろう」
「ワンネスであろう」
「真我実現しよう」そして自我(エゴ)の終焉を願うのである

しかしそもそも、この自我(エゴ)の終焉こそ自我(エゴ)が一番願うことではないか
なぜなら自我(エゴ)こそ、自分である自我(エゴ)が有ると思い
この夢の現象世界が存在していると思っているからである
この現象界のシステムを支えているマインドという根本無明が
輪廻し、進化し、悟りを開くという個人の魂の錯覚を生み出したのだ
これは虚偽だ
これが苦しみであり、悲しみだ
これこそが二元性であり、時間であるマインドという根本無明の本質である

この根本無明が
現象界に実相界から生まれたと思い
そして根源に帰還するという夢を見ているのだ

本当は現象界に生まれたこともないし、そうであるので死ぬこともないのではないだろうか

帰還などしない、なぜなら出発していないからだ

真の私たちは生まれてもいないし、転生もしていない

それはただ、そうマインドが思っているのだけではないのか

そしてそのマインドがこの個人という錯覚をもたらしたのではないか

個人などは実際には何処にもなく、あるのは全体としてのマインドという二元性であり、分離性そのものである


そしてそれが内部と言われるものである


そして更に、次の言葉である「内部は外部である」とは
その夢の根本、錯覚の根本、現象世界の根本を非分離性、非二元性の「気づき」という意識状態から
即ち全体の絶対状態から見たとき

ニサルガダッタ・マハラジのいう
「内部は外部である」という言明になるのだと思う

ここには個人的な言明は一切無い、それは「個人という錯覚を生み出したマインド」という根本の状態を看破しているのだとおもう

内部即ち観察者・見る者・主体は、外部即ち対象・見られるもの・客体であるということ

このとき「見るものは見られるものである」の状態であり
それは非分離性・非二元性の状態であり
それは全体性の状態であり

上江洲義秀先生などの覚者の言われる

全ては完全完璧
全ては一体、
全ては全体そのもの
全ては神そのものという「気づき」の意識状態であると思われる

それこそ私の友人達の体験した「愛の状態」「絶対状態」であると思われる

それを言葉という非常に限定した媒体を使用した場合

「内部は外部である」というニサルガダッタ・マハラジの一言になるのだと思う

それをクリシュナムルティーは「見るものは見られるものである」とも言ったのである

この彼らの状態は絶対状態であり、神の意識そのものである

それが「気づき」と言われる

であるので私たちは

外部が自分の外側にあると思って
マインドによって創り出された自我(エゴ)が
「成功したい」「悟りたい」「良くなりたい」「安全でいたい」「持続したい」と願うのである

そう願っている記憶の固まりこそ、自我(エゴ)であり

その自我(エゴ)こそ、自我(エゴ)が存在していると錯覚して、自我(エゴ)の終焉を願うのである

これこそマインドのカラクリ
これこそ意識界のカラクリ
これこそ輪廻転生を支えているカラクリであり

このカラクリこそ根本無明、即ち夢であり非実在であり

この悲しみの現象世界を維持させ

宇宙を誕生させ、死滅させ、進化させ、そして退化させている根本の二元性である

これこそ非実在、錯覚、時間、

これこそ敵だとクリシュナムルティーによって言われ続けている、そのものである

それは存在しないと、夢であり幻覚だと覚者は言われる







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