観念の崩壊
信じていること、信念体系、信念は崩れ去る
なぜならそれは観念だからである
信仰、自分の構築してきた世界観、人生観、宇宙観、哲学、自分の回りに築き上げてきた膨大なる思想、概念、思い込み、信念の全ては崩れ去る
そして私自身も崩れ去る
崩れ去るものそれはなにか
崩れ去る者とはそれは観念である、崩れ去る私である
知識、認識、体験、経験、自己知識、哲学、宗教、信仰等の根幹である観念が崩れ去るとき
何がそこに残るであろうか
現実が残る
ではその現実とは何か
現実とはあるがままであり、観念は現実ではない
あるがままとはこの私の立っている次元とレベルによって明らかに異なっている
体験に固執することは愚かなることである
この体験も経験も認識もこのそれぞれのレベルでの全てのそのあるがままであり
あるがままとはこの現在の私の次元とレベルによって引き起こされているからである
崩れ去る者それは究極ではない、
究極であるならば、まず、そこに体験し記憶し認識している私などいないはずだからである
対象と主体の分離はないはずである
覚者がたの有名なる言葉
肉体は私ではない
(ということは肉体である私というこの肉体自身の意識、すなわち肉体としての質料の意識は私ではないと言うことである)
感情は私ではない
(と言うことは感情である、アストラル体若しくはサイキック体と呼ばれているこの身体独自の意識は私では無いと云うことである)
思考は私ではない
(と言うことは思考や観念や知識や想念であるメンタル体、若しくはノエティック体と呼ばれているこの思考体の意識は私ではないと云うことである)
記憶は私ではない
(と言うことは思考や感情や知識や観念や経験や体験の記憶である私、すなわちコーザル体・記憶体若しくはサイコノエティック体と一括して呼ばれている輪廻の記憶である個人や人格を継承しているこのコーザル体の意識は私では無いと云うことである)
私は私ではない
(と言うことはこの進化し、最後には至高なる御方と合一するであろう、この人格や個人という輪廻している者を支えている究極なる第一想念「〜に成る私」「成仏する私」「神と一体に成る私」「進化し成長しそして最後は神と合一する主体」として根源的なる第一想念、その魂とでも言うべき私の意識というものも私では無いと云うことである)
私とは観念である
(と言うことはこれらの私と言うこの最終的なる自我意識、時間空間である意識、観察者の私と言う所の自他の分離を前提とし、見る者と見られる者という分離を前提とした全体ではない意識そのものの私とは観念であると言うことである)
私はいない
(ということは私と言う究極の分離、二元そのものは存在していないということであり、この究極の非二元性、非分離性である全体そのものが私であるということである)
しかし
しかしである
ここで最大限に注意しなければならないことは
私はいま観念で以上これらのことを観念していると云うことである
これを観念ではなく、実際のあるがままとしてこれを述べるためには
実際に立っている場所が何処の地点なのかをハッキリ自ら分かっておかねばならない
以上のことを観念ではなく自身として言明することができるためには
これ以前の段階を全てクリヤーにしておかねばならないのではないだろうか
それは具体的にはどういうことであるのか
それは
肉体としての私が直列すると言うこと、一直線に並ぶと言うこと、最奥の“「分離した私は存在していない」という全体”であるただ一つなる状態と肉体の状態が並んでいなければ、その肉体としての私がその状態を邪魔して、阻止しようとすることであろう
肉体としての私なる意識がハート最奥の「ただ一つなる全体・非二元」と同じ波長、同じ周波数、それが通過する媒体となっていなければならないのである、中空の竹になっていなければならない
そしてそれはサイキック体メンタル体(サイコノエティック体)にも同じく同じように言える、感情の波が全く起こらず、平静、平安、静かなる静寂
でなければ到底「ただ一つなる全体・非二元」が通過する媒体となることは出来ない
そしてそれは全く同じように
コーザル体の私という意識が、すなわち感情と思考のボディーが「ただ一つなる全体・非二元」と直列すると言うこと、それはとりもなおさず感情と思考のさざ波が一切終結して何の感情も思考も記憶もない状態であることであろう。記憶が解消して全くの沈黙がなければならない
だから思考と感情とその記憶が、その記憶の私と言う想念が終結していない状態では「ただ一つなる全体・非二元」と直列していると言うことは言えないのであろう
さらに
根源的な私と言う第一の想念である根本的な自我そのものであるもの。
「肉体を自分と錯覚することによって多くの人格や個人と思っている私」という根本の錯覚こそが、
自分は他人と分離している、世界は自分と別個に対象として存在していると観念し、
“私とは既に「ただ一つなる全体・非二元」であるのに、そうではない”と思う想念である。(ラマナ・マハリシ)これが一般で言われている魂の事であり、第一想念であるのではないか
此処で重要なることとは実際に
ハートの内奥の「ただ一つなる全体・非二元」なるものと数多くの身体である私が直列すると言うこと
肉体もアストラル体もメンタル体もサイコノエティック体もそしてコーザル体もさらに魂すらも「ただ一つなる全体・非二元」と実際に並ぶ状態であること
すなわち
肉体もアストラル体もメンタル体もサイコノエティック体もそしてコーザル体もさらに魂さえも「ただ一つなる全体・非二元」の波長と同調している必要が有ると言うことはそれらの全ての身体が透明となり真の私の媒体となっているということである
その時
本当の意味で
誤っている観念に注意を払うことを止めている状態が生まれていることであろう
この誤っている観念とは
真我を純粋なる絶対主体として対象無く内なるハートで在るのではなく、対象として見ている事である、これが誤っている観念である
真我を対象として二元性で体験し経験していることである、これが誤っている観念である
自分は既に真我であるのではなく、到ることであると思う事である、これが誤っている観念である
自分は既に真我であるのではないと思う事である、これが誤っている観念である
私は「自我(エゴ)としての私」であると思う事である、これが誤っている観念である
私は魂で有ると思うことである、これが誤っている観念である
私は時間と空間に束縛されていると思うことが誤っている観念である
私はマーヤによって限定されている、束縛されていると思うことである、これが誤っている観念である
私は輪廻転生していると思う事である、これが誤っている観念である
私は対象を見ている者・観察者であると思う事である、これが誤っている観念である
私は真我に到る魂で有ると思うことである、これが誤っている観念である
私は個人であり、個性があり人格であり、世界が私とは別個に存在していると思うことである、これが誤っている観念である
私は進歩している、私は段々良くなっており最終には真我実現すると思う事である、これが誤っている観念である
私は世界や自我や空を観察している観察者であると思うことである、これが誤っている観念である
(真我においては空を見ている者もなく空に出没する思考や自我を対象として見ているという二元の状態は存在していないと言われている)
私は見る者、見られる者、見る事に関与していると思ったりすることである、これが誤っている観念である
私は「自我(エゴ)としての私」や偽我とは別だと思う事である、これが誤った観念である
これらの観念こそが
ラマナ・マハリシは誤っている観念であると言われているのだ