真我の特徴の一つであるもの

それが「見るものは見られるものである」

 

 

 

「見るものは見られるものである」=真我=悟り=在るもの=非二元性=非分離性であるとおもう。

 

この「実在」の状態・次元を

「見るものは見られるものである」で導き解説したのがクリシュナムルティー

「真我」で導き、教えたのがラマナ・マハルシ・上江洲義秀先生

「在るもの」で導き、教えたのが道元達

「非二元性・非分離性」で導いたのが否定派の覚者達だがいずれにしても同じ同一の次元である、実在界・実相界・リアリティーであることであるとおもう。

 

その状態をクリシュナムルティーはそれを最初から最後まで子供から大人まで同じように指し示し、尋ねた。「見るものは見られるものである」でしょう、そうですね、と。

 

@設問・公案「見るものは見られるものである」とは

ここで

バーナデットロバーツはいう

“真の意味で『在るもの』、『悟り』、『真我』、「見るものは見られるものである」は見ることは出来ない。

『在るもの』、『悟り』、『真我』、「見るものは見られるものである」は対象になり得ず把握できず、また主体にもならない。

その原因は、『在るもの』、『悟り』、『真我』、「見るものは見られるものである」自体が非相対的なもので、自己意識がないために、自己を意識するような通常の心とは無縁であるからだ。

 

自分を知るために自己を客体化しないでも、自分を主体として知ると主張する人もいるかもしれないが、それがあり得ないことは、私バーナデットロバーツが経験した事で明白だった。

自己を客体として見られなくなってしまうときには、主体も意識できなくなる。

意識にとっては、その主体は無に等しい。

だが、もしも何かを意識したとすれば、それは客体となってしまっている。

既知の自己がなくても意識があれば、その主体があると論理的には言えるかもしれない。

だが、単なる知的な要請として考えられた「自己」が、
現実に知られも感ぜられもせず、働いてもいないとしたら、
そんな自己に何の意味があるだろうか。

 

自己を意識することは、「自分が生きていることの活力の感覚」に支えられなければ、空想と同じように無意味である。自己とは単なる意識の対象でなく、
自分の活力、意志、衝動の根源的な感覚であり、
それが知の働き(内省の機能)と結び付いて「これが私だ」という主観的な確かさになるのである。



生の活力は「これが私だ」と意識する以前には、単なる肉体の活力と区別できない。
内省の機能(※これが根本の心、マインドだ、無明だ・注 久保)により、自意識が発生して始めて、その活力を自分のものと思うようになる。


そして、情意の働きの本質は「自分が生きている」という感覚にある。

自己とは、人間の思考を遂行しているものというよりも、その根底にある生の活力の意識にほかならないのである。

したがって、認識や感情の働きを抑えたり変化させても、自己を超えるわけにはいかないのは明らかである。(※訳注、従っていまのマインドの作用である意識状態・内省機能では「見るものは見られるものである」を理解し、あるがままを見ることは出来ない)

内省の機能が働いているかぎりは、姿を変えた自己が現れるだけで、
この機能を自分で止めることは出来ない。


現在は、人間が生まれてから死ぬまで、あるいは、死後でさえも、
自己が常に不可欠のものとして扱われている。

こういう固定観念に囚われているかぎりは、
自己を超えた次元に目を開くことは出来ないだろう。“

(※訳注、従って「見るものは見られるものである」が起こるためには、真の瞑想が起きて、その中で「見るものは見られるものである」の理解が始まらなければならない、と言うことになってくる)

 

A   そこで必然的に瞑想に導かれる、そこで瞑想が要請される。

 

真の瞑想とは起こることである。やってくることであり、自分ですることではない。がしかし、その瞑想が起きるときとは、そのプロセス

として自分が行う瞑想(真の意味では違うとしても)が要請される。

何故なら真の瞑想が起こるためには、その準備段階として偽瞑想が必須であるからだ、とそう思われる。

またここでもバーナデットロバーツがその真の瞑想を二つの段階に分けて解説しているので紹介する

 

A−T

瞑想の初期段階では、

   自省つまり心(マインド)がそれ自体を省みることが出来なくなると、自己の活力と動きは停止する。

   するとなんの感情も起きず、過去の記憶もバラバラになってしまう。

   その時には、ひとつひとつの小さな事件が現在の時の全体となり、
しかもそれが過ぎればそこには連続性もない。

   こうした沈黙(悟り)は、自省・内省と自意識が消え去った後に残るものであるために、自己の努力では達せられない。

 

   静寂と虚無が、私(バーナデット ロバーツ)のみならず、万物におよび、特定の所在を持たないことを見て、はじめて、この偏在する静寂こそが『悟り』であると理解した。

 

 

   特に強調されるべき事は、この旅は、最後には存在全般に渡る虚無に出会わなければならないという点である。

 

   希望も信頼も奪われ、意識するものも無意識のものも含めて、ありとあらゆる経験と観念が一つ残らず滅び去ったあとに、突然『悟り』が現れる。

 

   つまり、究極の実在なしに生きることに十全に慣れて、ついにはその状況を受け入れるほかなくなった時にのみ、『悟り』が顕現するのである。


A−U

次の第2段階

旅の最初では、無自己を感じても、それは自己に対する相対的な無自己である。
しかし、やがて自己と無自己の隔たりが大きくなるにつれ、自己と無自己の対立も消えて行った。(バーナデット ロバーツ)
したがって、無自己の沈黙すらも最後には感じられなくなった。


・瞑想の第一段階が、「自己から無自己へ至る」とすれば、
 第二段階では、「無自己から到達するのは、特定のどこでもなく」、
 ありとあらゆるところと言ってもよいだろう。

   それはまた、相対的な沈黙から、『悟り』への絶対的な沈黙への道と言える。

   しかし、これはもともと言葉で表現し得ないことであり、
『悟り』が知られる道は、
『悟り』が『悟り』自身を知るよりほかにはないのである。

 

   純粋に非相対的な次元では、
『悟り』『真我』は自分自身だけを見る『目』なのである

 

   もしも洞察を以後の心の働きに生かしておきたいのならば、
その秘訣は、それを取り上げて教理化しないこと、
それに考えを向けさえもしないことである。
洞察は来ては去ってゆくものであり、それを留まらせるには共に流れてゆくしかない。


疑問が生ずるのはしかたがないとしても、
それに早まった結論を出さないことが大切である。
経験を評価しないことではじめて、その真偽が明らかになる。

偽りは自然に脱落して、もともと去来するものではない真は、
そのまま残るものである。
つまり、真理は経験が消え去った後に残っているものである。

こうした変容を妨げているものは、外界の事物そのものではなく、
その事物について人間が考えることである。

もしもその考えがなければ、
そもそもこうした変容は必要がないのかもしれない。

これが究極のものだとして何かにしがみつけば、
生の流れに逆らうことになる。

 

 

A−V

「見るものは見られるものである」の状態とは

真我の意識状態とは


ここでまたバーナデットロバーツはその「見るものは見られるものである」を理解している時の状態とはどういうことなのかを詳しく説明している。非常にその次元から見ている状態が分かり易く述べられているので解説したい

 

   まったくの現在のこの瞬間にしか生きることは出来ず、心はその瞬間に集中していて、過去や未来を思慮することがない。

 

   観念は別の瞬間に持ち運ばれず、他の観念と照合もされず、心は一点の曇りもなく既成観念が入り込む余地もない。

 

 

   考えることと為すべきことは、常に目前にあり、何を考えるか、何を為すかという事で迷って停滞するということがないのである。

 

   純粋主体性は、全存在が集中して張り詰められた「今」へのまったき覚醒を与える。

 

   心が完全に沈黙したままでも、他人の言うことに耳を傾けることは出来るし、また、思考を要求しないような本ならば読むことができた。

 

   沈黙した心のまま、会話もできることが分かった。ただしこの内容は、はじめは実際的な事柄に限られていて、しかもごく短いものであったが、次第に楽に心の外での会話が出来るようにもなった。

 

   物事は全体として見えるだけで、しかも、それも何かをしなければならないような、特に緊張した場合にかぎられている。これは個々のものに焦点を合わせられない子供の知覚に似てる。

 

   そして、以前に好きだった音楽は雑音となり、自然音と沈黙が私の楽音となった。

 

   生活は、単純化され、美がなければ何かを特に珍重することもないので、実際的な用途のないものを所有する意味もなくなる。

 

   何かが特に美しいということがなければ、すべてが美しく、すでにその美の一部となって所有されているのであるから、何も所有する必要がないのである。

 

   自意識の喪失とともに、身体感覚もある程度失われたようだ。変容の時期にあった時には身体が絶えず溶け去るように感じたのもそのためだろう。しかし、やがてはこの状況に慣れ、身体の訴えをいちいち聞かないで済むのである意味では前よりもよく身体の世話をすることが出来るようになった。

 

   肉体的苦痛は感じるのであるが、疲れたとか、休みたいとか、楽になりたいというような、気持ち、つまり意志がないのである。

 

   それまで生きるために必要だと思っていたもの、つまり自己や情意や活力が、実は必要ではないことが理解された。

 

   純粋行とは、行為者も行為の対象も不可知であって、行為のみが知られる。

 

   そこでは、行為とその対象と、その内容が皆ひとつであり、知ること、見ること、為すことが、相互に区別されない単一の「行」をなしている。

 

   自意識なしの思考は、現在の瞬間に結び付けられた、実際的なものばかりである。

 

   普通の思考は、心が外と内、過去と未来を往来し、個人的な感情や意向に振り回されて疲労しているだけであるのに比べれば、この思考は必要最低限に局限されたものであり、各瞬間の目前の明白な事柄に対して、頭に閃くようになされる。

 

   こうした沈黙を伴った行為では、思考がなくなるわけではなく、ただ自己の影響を受けた曇った思考がないということである。こうした時、行為は存在と同一なのである。

 

   純粋行が理解されにくいのは、人は普通、行為を「誰が」「何のために」「何をするのか」、という面で考えるからである。

 

   しかし自己がなければ、そういうものはなく、行為と存在が一致したときに、純粋行となるのである。

 

   基準がなく、努力も選択もいらない生活。

 

   相反するものを釣り合わせることもない、非相対的なこの生では、情意(あるいは思考)の働きで、どちらかよい方を選ぶのではなく、ただ、そこにあるものを、そのまま受け取るだけなのである。

 

   今の瞬間だけで満たされているので、過去や未来を思う余地はない。

 

   基準がなく、選択の必要がなければ、今の瞬間の外に踏み出ることはあり得ない。

 

   この生は、相対性からくるような思考の働きからは無縁な、沈黙という意味での静寂の中に包み込まれている点では、閉鎖的とも言えるが、従うべき基準もないために流動的なものでもある。

 

   また、人徳という意味では、後退したと言う言い方も出来るだろう。つまり、徳の遂行の必要がなくなったのである。徳でも悪徳でも、それを行う意志そのものがもうないからである。

 

   意志がなくとも、知性の働きは妨げられないため、意志と知性は本質的には結び付けられたものではないとも理解された。

 

   今の瞬間に生きる者にとっては、何をどう感じるかという事は問題にならない。時間的にも、内的にも、前後へ揺らぐ余地がないために、努力や選択などの、どんな動きもあり得ない。各瞬間は、それに応じた行動を伴っていて、考えたり感じたりする必要がないのである。

 

   自己がなくなれば、『悟り』だけが残る。時にはそれは非常に強烈にもなるが、何か異常なものではなく、自然で平明なもので、どこを見てもあるという意味では、むしろ通常のものなのである。

 

   『悟り』が経験されるのは私の内の客体としてではなく、『悟り自身』の純粋主体としてである。

 

   もしも、そこに意識が残っているとすれば、それは『私はそれである』と言うほかないものである。

 

   「悟りはどこにあるのか」という問いは、「悟りとは何か」という問いと切り離すことができないものであり、『悟り』の絶対主体性を見た者には、すぐに答えられる。つまり、どこと言えば、いたるところにあり、何かと言えば、ありとあらゆるものなのである。

 

   純粋主体性とは、何かを知るときに、知る者、知られる対象、知る行為そのものが、皆同一で分離していないことである。

 

   それは、目それ自身を見る目と言ってもよく、どこを見てもそれ自身(悟り)しか見えないのである。

 

   そこには、内も外もなく、その目が何に属していているかを問うのは無意味である。その問いに答えたとしたら、そのとたんに知る者と、知られるものに区別が起きるからである。

 

   『悟り』の純粋主体性は、どんな対象にも依存していない。しかし通常の主体性では、知る者と、知られるもの、主体と客体は分離していて、自己をも含めて、あらゆるものが客体として(分離したものとして)意識される。

 

   したがって、普通は主体が自分自身を主体として見ることはあり得ない。

 

   主体は、心が心自体を反省する機能によって客体化されて始めて知られ、こうして、自分自身の意識と感情と思想を自覚する。

 

   誰でも、時には主体としての自己に触れることは可能であるが、それは自己の客体化の機能が止まっていて、自分の思想や感情、そして意識そのものさえも意識されない時に限られるのである。

 

   しかし、その出会いは、心に留めることはできないので一瞥されるのみである。

 

   たとえ一瞥でも、この反省機能の停止状態で出会うのは、主体的な自己という一種の『虚無』で、これを私は『無自己』と呼ぶ。

 

   現在の瞬間には、自己に関連する何ものも出て来ない。

 

   『悟り』自身を見る『目』は、すべてをこの瞬間に結び付けているために、自己を必要としないのである。

 

   そこに残っているのは、自己が始まる以前からそこにあったものなのである。

 

   『悟り』では、通常の意識の場合のように、多くの対象を見るのではなく客体はただ一つで、それが同時に主体でもあるのだ。

 

   したがって『悟り』は通常の意識の客体のように、時によって見えたり、見えなかったりするようなものではなく、生活の中でも、いつも同じままである。

 

   つまり純粋主体性の状態でも外界の事物は知られるのである。

 

   ただ、その知り方が通常と違う。客体を知ることが、同時に主体を知ることになる。従って、相互に分離した事物を見る場合でも、その目は、それ自身を見ているだけなのである。たとえば、木を見る場合には、その木を見る者は私ではなく、見られるものは、単なる木ではなく、どちらも『悟り自身を見る目』の「二つの様相」であり、私はこれを「純粋主体性」と呼んだのである。

 

   『悟り』は、直接に体験するしかなく、観察によって分かるものではない。そこには、観察されるものは何もないからである。

 

   人は、自分の中に見るものだけを他人の中に見るのであり、内側に自己がなければ、外側にも自己はないのである。

 

   非相対的な純粋主体性にとっては、他人というものがないと言ってもよい。

 

   絶対無というものは、知によっては捕らえられないが、この絶対無こそが『悟り』であるというところに、最後に到達するのが神秘家である。

 

   『悟り』は無視すればするほど注目させようとし、注目しようとすればたちまちに姿を消してしまう。

 

   真の意味で『在るもの』、『悟り』は見ることは出来ない。

 

   『悟り』は対象になり得ず把握できず、また主体にもならない。

 

   その原因は、『悟り』自体が非相対的なもので、自己意識がないために、自己を意識するような通常の心とは無縁であるからだ。

 

   去来するものではない『悟り』を、あえて見る秘訣があるとしたら、『悟り』に注目しようとしないことである。

 

   悟りの中では、見るもの、見られるもの、見ることの3つがすべて「一つ」である。

 

    以上バーナデットロバーツから抜粋です

 

 

 

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