「愛とは行うものではなく、存在そのものなのだ」 とニサルガダッタ・マハラジは言う 愛とは 愛するのではなく
愛を行うのでもなく 愛は 自分が虚偽であったこと 自分がいなかったこと 自分は存在していなかったこと
即ち虚偽が虚偽であることを 見ることができるそのレベルのとき
その「見」の中で 即ち
その「私は在る」のレベルのなか 「私はある」「存在」に固有の状態であるという
だから
「私は在る」そのものが愛なのであって
この虚偽の私が 行うことではない 努力することではない
上江洲義秀先生が良く言うように 「私は愛さないということが出来ない」 という真我の状態なのだ
そのレベルに固有の状態のことを愛というのだ
「存在」レベルとは、だから愛そのものなのだ
平安と至福がその存在状態の
高次感情の特徴であるように
愛も又 その「存在」というレベルに 「私は在る」そのもののレベルの一側面なのだ
平安と至福と愛は 「存在」そのものの一部なのだ それは 「見るものは見られるものである」の「見」がその一部であるように
主体と客体の分離が終焉した状態だ
それが愛だ 愛とは感情ではない、感情を超越した状態だ
この状態は上江洲義秀先生が良く言う
「私はお琴(これは一例としてあげている)そのもので、その床の間に置いてある、お琴の考えていること、感情が、気持ちが直接分かる」といっていた、
その状態だ
この愛のレベルは 見る対象は、即、自分であるので
その対象は、自分と分離していない同じ観照者でもあるので (その見られる対象である「もの」と見ている側の観照者は分離していないので)
その対象の感情や気持ちや考えが、自分の一部として直接に、体験するのだ
これが愛だ
上江洲義秀先生は良く言うが
「花や、物の気持ちが考えがよく分かる」という 「話していることが直接に分かる」という まして 動物 そして
人間である、私達の 事が上江洲義秀先生に分からないことが在ろうか
この愛の状態を、逆の立場から考えると
私の観照者として彼(上江洲義秀先生)が 私自身のことを
私の願っていること、考えていること、感じていることが、悩んでいることが分からないはずはない
同じ観照者として
であるから
悟った人は、私達のことを私達以上に理解しているのだし
私達の観照者として(私と汝は分離していないで一体であるので)、私達の悩みや、感じていること、考えていることを分かっているのだと思う。
ただそれはプライバシーの侵害でもあるので それを口にしないだけだ それが真我に到達した人の状態の一部だ
即ち
ニサルガダッタ・マハラジが良く言う その状態こそ
愛という「存在・ I AM」レベルに固有の状態なのだ
悟った人が
よく言う「世界は私である」というのも この文脈で捉えられるのではないだろうか
彼が見る世界中の人々は彼自身なのだ、分離していない
同じ観照者なのだ 上江洲義秀先生が見る世界中の人々は上江洲義秀先生自身なのだ
もし私が悟ったら、恐らく私は世界中の人々と分離していないで、彼らの観照者と一体で、彼ら以上に彼らのことがよく分かり、世界の人の、一人一人の考えていること、感じていること悲しんでいること、願っていること、苦しんでいることが分かるに違いない
彼らの観照者は私の観照者でもあるのだから
私達は分離していない、分離していると思うのは、その分離が生み出した私であり、私などというものは「存在・I AM THAT」の中には無い
と言われている
「存在」は愛である 愛は「私は在る」である 愛は感情ではない 愛はすることではない
愛は行うことではない 愛は在ったり無かったりはない 愛は悟った人がいるとき
その人の存在そのものが愛そのものである
何故なら分離がないからである 二元性が看破されたからである 虚偽が虚偽と見られたからである
「見ること」がおきたからである
それが、即「愛」である
私達は最初から悟っている 悟っていないと錯覚しているだけだとニサルガダッタ・マハラジはいう
悟ろうとすること自体がその錯覚に基づいているという だから
愛そうと思うこと自体がその錯覚に基づいているという
愛していると思うこと自体が、その錯覚に基づいている
私達がそのレベルにないときは
その私達のする愛は愛ではない
逆に言うと
その「存在」レベルにないときは
何をしても
それは愛ではない
私達がその「存在」レベルであるとき
何をしても
それは
愛である
最初から愛なのだ 愛しかないのだ
という
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