脳を経由しているもの、しないもの
脳を経由していないものとは何か
また脳を経由しているものとは何か、
脳を経由している状態とは何か
脳を経由していない状態とはなにか
脳を経由して届いていないとき果たして認識は有ることが出来るか
脳を経由していない状態とは、この意識の座そのものであることであろう、但し「結果であるこの意識もどき」
と言われている時空間と自他の分離を伴った思考(脳のネットワーク)というものではないことだろう
意識と無意識とは脳の状態であり、正しくは脳を経由している脳(ネットワークマインド)の状態であるからである
脳を経由していない状態、脳から届くものがストップしている状態、意識の座そのものの意識状態
インもアウトもされていない、脳ではない状態とは何か
知覚や思考や欲望などの頭脳を経由したものが届き(インプット)、そしてそれに対して条件付けられた反応をするように
セットされている、このプログラム(あの脳)からのアウトプットというプロセスが「同じく脳と混同されている」意識の座の
目前で行われておりこのプロセスが意識の座を覆っている、これが私達地球人類の常態である
※頭脳又はこの脳とは物質次元の頭脳を意味している、単体の個人物質脳である
※あの脳とはこの頭脳とは次元が違って畳み込まれている個別の脳であり・幽体の脳、若しくは玉響に見られる霊魂
という脳であると推測している、これが観照者である意識の座に繋がっている、単体の個人の脳である
※全体脳又はネットワーク脳とはこれが頭脳とあの脳という単体を結んでいるマインドのネットワークであり一惑星を包み
こんでいる
人類全体の過去からの記憶であり、人類の集合意識若しくは地球の想念帯などと言われている「人類の悲しみ苦しみ」
ではないか、地球に於ける過去からのマインド・思考の集合体が人類全体の脳を結んで覆っている
それぞれの家庭のPCとインターネットシステムとの関係に似ている
※プログラムとは観照者と言われる存在が設定したもの、若しくはそれ以上の真我からの根源が設定したものの二つが
あるのではないだろうか、このプログラムによって思考と出来事と行為は起きている、そしてこのプログラムに対しての
頭脳を経由したマインドが自我を生みだしこのプログラムに対して反応することで自我・記憶を強固にするのではないか
この頭脳を経由したマインドが二元性であり、無明であり、思考であり、本来存在しないと言われる時空間である
これがマトリックスを生み出している
※意識の座とは観照者や真我の入り口であり、スクリーンでありこの意識の座に脳が繋がることによって
マトリックスが上映されている
そしてその意識の座とは意識でも無意識でもないとしたら何であろうか(これが通常気づきと呼ばれている)
その意識の座には脳から経由しているものがストップしている状態であるとき、そしてその脳を経由しているものに対する
頭脳の中身である記憶・自我からの条件付けられた反応が停止し消滅しており(プログラムが自己完了しているとき)
頭脳を経由して届いているもの(思考・時空間・自我)から解放されていることであろう
此処に於いて初めて自由が実感されていることだろう、
私は行為者ではない、行為していない、行為は起きている、行為は私とは関係していないとの実感があるだろう
何故なら
私は肉体ではなかった、私は個人ではなかった、私は自我ではなかった、私は思考ではなかった、私は全体であり自由だと
それ故に、以下の事が自らよりハッキリと明らかになる
私は行為していない、私は思考していない、私は願ったり、感じたり、知覚したり、思ったりしていないと
そして自我は私ではないと、私は概念であったと
その変化は全ての次元の質料に具体的に及んでいることであろう
意識の座には外部から(内部に対する外部ではない)ではなくその意識の座からの光で満ちていることであろう
(脳を経由しているという観念こそが脳の作りだしている観念であり、それは本来存在していない内部と外部の状態を
生みだし、内部と外部に分割し、且つ個人の脳ではなくて機能しているのは繋がっている全体の脳でしかないのに
それを個人の分離した脳であると人格単位で存在しているように錯覚させているのである、その錯覚の
個人という観念を生み出しているのがこの脳でありプログラムである、そうしてこの脳が思考や感情を外部からやってくる
ものと内部からやってくるものという外部と内部の分離感を知覚し実感させているのである)
この物質の脳を経由して届いているものとは
より精妙である「あの脳」のプログラムである条件付け、それ自身であるにも関わらず
「脳を経由して届いている」と、それは外部からであると脳が思い込んでいるだけではないか
内部と外部の分割とは脳が汚染されているから、それらの思考が脳を経由して意識の座に届いているのだ
この物質的な頭脳が働くことが出来るのはより精妙な「あの脳」が起動しているからであり
「この頭脳」も「あの頭脳」も共に意識の座があるから存在することが出来ているのではないだろうか
あの脳を作動させているのは独立した単体の脳ではなくて、ネットワークで繋がっている大プログラムであり
私達の脳とはこれらのネットワークが作動させているのであり、私達の頭脳とはその一部の端末ではないか
覚者方はだから
外部は内部であると言われるのではないか
外部と内部という感覚や実感は脳(を経由したもの)が生み出しているのではないか
この頭脳が写しだしている時間も空間も自他の分離も、知覚も認識もそして思考も出来事も
あのネットワークで繋がっている頭脳のネットワークであるプログラムそのものという内部であるのではないか
そして更に、それ故に
だからこそ覚者はこれらの内部(客体を認識している主体)とは外部(真我ではない)であると言われるのではないか
真の絶対主体であるなら客体を認識することなく、ただ私だけがあるのだ
すなわち真実の内部とは意識の座の内部のことであり、
この意識の座に現れている(又は覆っている)認識される事が内部なのではない
知覚し、認識される思考や出来事や観念は
一見すると内部のように見られるがそれらは、意識の座の内部ではなく
外部(「意識の座」である真我そのものではない)であると、言われる
それらは外部であり内部である外部であり中身は現わされている思考であり、観念であると言われるのではないか
この物質の頭脳が機能するためには「あの脳」がこの肉体の頭脳としっかりと結合しなくてはならないと思う
そういうことであるので「あの脳」こそが条件付けられているものであり
○○○のディクシャによって影響を受けるのは「あの脳」(ということはこの頭脳でもある)であり、
それが薬物やLSDや大麻等によって影響を受ける「この脳」である頭脳に影響を及ぼしているのである
そしてこの脳はあの脳にも影響を与えるのである
けれども
逆に言えば「この頭脳」に甚大なる影響を与える薬物は、「あの脳」には結合されている限りの影響はあっても、
そのLSDや薬物や何かの影響で一時的に影響されたとしてもプログラムそのものは変えることは出来ない
LSDや薬物などの神秘体験や絶頂体験には限度があると言うことである、
「あの脳」を根本的には変革できない
しかし「あの脳」であるものへ直接働き掛ける霊的インプラントやディクシャはより深い影響を与えるだろう
「あの脳」とは条件付けられているものであり、プログラムであると思う、その脳に影響するからである
けれどもそれらの霊的インプラントや霊的操作やディクシャでプログラムである「あの脳」に影響を与えられること自体が
「あの脳」であるプログラムの一部、すなわちそのプログラムが引き起こしているのではないだろうか
それらの霊的インプラントやディクシャによっても、全く意識の座は何ら影響を受けない
変わるのは真の私の意識の座ではなく、意識の座を覆っていたプログラムであるからである
だから脳を経由していないものと言うことは意識の座であるということである、その奥の観照者であるといことである
正確にはディクシャ等によって影響を受ける脳はより精妙で全体脳とネットワークで繋がっている「あの脳」であり
その「あの脳」から経由されて意識の座に届いているという流れが逆転し
この以前の流れに左右されなくなるということである
いままでとは逆方向である流れが発生したことによって
今度は逆に意識の座の方から「あの脳」を経由し、この脳である頭脳に影響を及ぼすことが起こる、
すなわち
脳を経由していないものである状態、未知なるものである状態、非二元性の状態が脳に出現する
その流れがこの脳に出現するのである
すなわち意識の座の奥から、今までとは逆方向に流れが発生し、プログラムである「あの脳」を経由してこの脳を
作動させている状態である
けれども結果である私達にはそれがまだ起こっていないのだ、それは自己開陳プログラムがその段階ではないと言うことである
現段階の私達は「あの脳」がこの脳と全く今のところは(この物質界にいる限りは)、両者が固く結合しており
頭脳を経由した流れがこの意識の座を覆っている状態であり、
「意識の座」の内部からの流れが「あの頭脳」と「この頭脳」とに結合していない状態である
だから流れの方向が逆にならなければならないのである
しかしそれには方法はなく道もない、方法や道とはこちら側のアクセス方法であり、思考が考えることである
この脳とあの脳は両者共にこちら側からアクセスしても同じように「意識の座」には結ばれないと言うことである
「意識の座」には結合しないと言うことである、その結合は意識の座側から起こる、やってくる
準備の出来た脳にあちら側からやってくる恩寵である
結合するためには「意識の座」側からの救済が起こらねばならない
救済は常にあちら側から「意識の座」を経由して、こちら側に発動される
しかしそれもプログラムであり、それはプログラムとしてこのプログラムの制作者の意図そのものである
そのプログラムの制作者こそが全体なる一つなるものが生み出したものであると言われている
この脳にしろあの脳にしても脳から届くものは認識や経験、そして主体と客体の二元、時間と空間という分離した概念であり
苦界である三界の輪廻転生というマトリックスでしかないのである
この概念、それが届いていない状態とはプログラムよってコントロールされている(あの脳の状態)と言うことである
そしてそのコントロールしプログラムを生み出しているは観照者であり根源であり、その根源は真我からである
自我という観念も、外部や内部という二元分離も、葛藤も苦しみや楽しみも
外部と錯覚している良い出来事も良くない出来事も結果であり、結果である自我にはそのプログラムは関係していない、
自我には関与できないものである、そもそも自我はプログラムの成就のためにプログラムが生み出した概念である
聖なる催眠は数百兆という指人形・「自我(エゴ)としての私」をプログラムによって動かしているのである
しかしけれども、この「意識の座」とは自我でも人格でもなく個人ではない
それは永遠であり全体の一部である聖なる「永遠のパーソナリティー」である
この永遠のパーソナリティーは自我ではなく、現象界を構築している最奥部に位置している聖なる全体の魂の一部で有る
結果であるこの個体の脳であるプログラムとは全体の創り上げた結果であり、その一部であるのではないか
ラマナ・マハリシはこのように言っているのではないか
根源である真我から発生しているこの第一想念である私という概念の発生現場を見たとき
それは始めから存在しておらず、ただ一つなる全体の私しか存在していないと