死の賛歌
愛の賛歌を歌うためには、その前に死の賛歌が歌われなければならない
死の賛歌がなくして、歌われるこの愛の詩
その愛の賛歌は、愛という名前を付けただけの時間(マインド)が生み出した偽物に違いない
私は心底から死の賛歌を歌う、愛の賛歌を歌うために
愛の賛歌を歌う前に、死の賛歌を歌っていなければならない
磔が無ければ復活はあり得ない!!
十字架が無ければならない
魂の死という十字架がなければその再生は単なる自我(エゴ)の継続に他ならないだろう
死のみが真の再生をもたらす、復活をもたらす
肉体や他のボディーを脱ぐことは全く「死」ではなく
死と錯覚している
肉体の死は「死」を遅らせている
幽体の死は「死」を先延ばしするマインドが「死」とおもっていることだ
継続は邪悪である
第1想念の継続は邪悪である
これは、即ちこの自他の分離が継続し
「〜なる」という錯覚が持続してしまうことだ
自我(エゴ)である第一想念の死こそ、神聖なるものだ
肉体の死ではない「死」こそ聖なるもの、完全なる「生」「人生」だ、「愛」だ
継続を絶ちきるものこそ「神聖」なるものである
しかしここに更なるトリックが待ち受けている
その「死」を待ちこがれている者こそ、自我(エゴ)である魂である、
これが持続しようとして死を利用しようとしている
それは「死」をも超えて生きようとしている、継続し、持続しようとしている、それこそ時間である
だから、この偽の私は、この「死」さえをも利用して「〜良くなろう」としている、神になろうとしている
この動きこそ、自我(エゴ)そのもの、
時間そのもの
第1想念そのもの、魂そのもの、「〜なる」という時間であるマインドそのものの動きである
気づきという「死そのもの」である「生」は「在ること」であり、「なること」ではない
既に「在る」のであり、それは「〜なる」ことに左右されない
「在る」を実現するものは、「死」である
在るの前に「死」がなければならない
「在る」、それは「死」そのものでもある
「死」こそ「生」である
それは
単なる自我(エゴ)の延長であり、自我(エゴ)の拡大である“偽のワンネス”や、“偽の愛”ではない
「死」がないところのワンネスや愛は本物ではない
磔のない復活や
十字架のない再生は
偽物であり、
時間というマインドの起こしている錯覚に過ぎない
「死」が在るところに「生」はあり
「死」があるところに「愛」はあり
「死」があるところに聖なるものがあり
「死」こそ「生」であり
「死」こそ「祝祭」であり
「死」こそ「気づき」であり
「死」こそ観察者ないの観察であり
「死」こそ「見るものは見られるものである」であり
「死」こそ未知なるものであり
「死」こそ観照者であり
「死」こそ真我のはたらきである
この「死」を肉体の死や、霊界での幽体や霊体などの上着を脱ぐことと取り違えてはならない
肉体の死は、この「死」とは、全く関係ない、肉体の死は「死」ではない
私は「死」を愛する
私は「死」という魂の消滅を希求する
この「死」がなければ
時間は継続し、邪悪な自他の分離のマインドが生きてしまう
そして自我(エゴ)は生き残り
時間の中で、藻?く
そして
完全になろうとし、悟ろうとし、良くなろうとし、更なる能力の拡大と、知覚の拡大、そして知識の拡大を身につけることだろう
そして、多くのパワーを身につけ、人心を操作し、多くの富や栄誉を身につけるであろう
しかし
そのことこそ、悲惨そのものである
自他の分離と、時間という「見るものと見られるものの分離」「内部と外部の分割認識」という
マインドの中で藻掻き続けるであろう
だから
頭脳の再生の為には「死」が訪れなければならない
自我(エゴ)の終焉の為には「死」が訪れなければならない
この第1想念である魂が輪廻転生することをストップさせるためには「死」が訪れなければならない
「死」こそマインドを終焉させる、自我(エゴ)を終焉させる
「死」こそ時間を停止させる
「死」こそ「生きる」ことを実現させる
私たちは生きているのではなくて、生存し、動かされているに過ぎない、私たちの行為は反応に過ぎない、条件付けの、プログラム通りの、筋書き通りの
「死」こそ「自由」である、
私たちは、現在は行為はしていない、
意志もない、
行為は起きていることに過ぎず、
その行為は反応に過ぎない
その反応を単に、自由意志と名称しているにすぎない、
自我(エゴ)が単に自分が行為していると錯覚し、信じ込んでいるだけで、
それは、この現象界に起きている映像に過ぎない、
進行している映画の上演に過ぎない、だから「死」こそ行為をもたらし、真の自由をもたらす
「死」無き再生は偽物である
「死」無き人生は、単なる映像に過ぎない
「死」無き覚醒は、マインドの創作に過ぎない
それは巧妙なる時間の創作物だ
観察者がいる限りそれは観察ではない
体験者がいる限りそれは体験ではない
経験者がいる限りそれは経験ではない
それは時間の生み出したトリックという映像に過ぎない
「死」がなければ、
マインドの死、自我(エゴ)の死がなければ
真実はあり得ない