観察者なしで見ること



クリシュナムルティーはいつも言う
観察者なしで見なさいと
見るものなしで見なさいと

そして
それが「見ること」ですと

どんなに小さな生徒にも彼はそのように言っていたのを思い出す


「観察者なしで見なさい、見るものなしで見なさい」に関して、思い出すことがある

私の亡くなった親しい友人は

よく言っていた、「久保さん、クリシュナムルティーは不可能を私たちに求めているんだよ」と

そして私はその友人に応えて言っていた

『 不可能だ、と言うことは諦めてしまうことだ、

だからその不可能と思われる事へと
諦めることなく、私たちの全注意の全てを固定し、
いついかなるときもこの超努力を続けることだと
だって、それしか道はないのだから』と

確かにクリシュナムルティーのいう「観察者なしで見なさい、見るものなしで見なさい」とは

それは簡単ではない、することではなく、起こることだと思われる

この現在の地球の意識レベルを遙かに超えている

ハッキリ言ってそれはブラフマンの、アートマンの、眼である
それは
絶対なるものの眼であり

全体なるもの、そのものの眼であり

非分離・非二元そのものの眼であり

過去・現在・未来を超えたもの、非時間そのものの眼であり

「今・此処」の絶対なる眼そのものであり

究極の「愛・アガペ」そのものの眼であり

全宇宙そのものを、存在たらしめているもの、その根源自体のものの眼である

そして心理学的に表現すれば
その眼は、この私たちの意識ではない意識であり
熟睡中においても気づいている意識、その「気づき」の意識状態である

クリシュナムルティーはどんな小さな生徒にも
これを優しく平易に説明した
そして常に
言った

「観察者なしで見なさい、見るものなしで見なさい」と

私たちは素直に、子供のように実行しようではないか、この究極の「見る」に向かって

そしてその為には
私たちの通常の意識は、常に「この意識と無意識」を超越した次元である「気づき」の意識へと
「観察者なしで見ること」へと注意を固定しなければならない


この固定するとは何か

それは、マインドを拒絶することだ

そしてマインドを拒絶するとは「ただ在る」ことだ
自我(エゴ)を拒絶することだ、これは自己否定でもある

あるがままをあるがままに見るためには、正しく眼を持たねばならず

それはマインドを拒絶することだ

真の私以外の「偽の私」、現在の「この私自身・自我(エゴ)」を拒絶することだ、マインドを拒絶することだ

そして、その偽の私とは一人ではなく、多くの私から成り立っていることを、意識の座に於いて見ることが出来る

クリシュナムルティーが言っていることを推測すれば
自我(エゴ)とは「多くの私」から成り立っている、
多くの自己、即ち多己が自我の本体であると

そこには「多くの私」を束ねている「一つの高級なる統合した私」などはいないのだと、

高次の自己・ハイヤーセルフなどはいないのだ

そのような中心的な一つの統合し永続している自己は存在しておらず

ただ、意識の座という無限空間の窓の内側をそれらの虚偽が覆っている

「私と名乗る」多くの観察者達(実はマインドの思考の断片だが)が群がり、塞いでいる
その多くの自我が瞬間的に入れ替わり、立ち替わり、意識の座の表面(鏡)に出現してくる、

それが私・自己というマインドそのものである

それは複数である、自我(エゴ)とは複数なのだ

この身体の頭脳が一つなので、単一の自我(エゴ)のように見えるだけだ

それがマインドの実体であり、私の正体である、

私とは、自己とは、自我(エゴ)とは複数なのだ

それがこの特定のある身体の頭脳を使っているのだ

そして、そのマインドとは、全て時間の観念そのものであり

過去の中に生きている、

その記憶という過去が、未来を投影している

それぞれの自我(エゴ)がそれぞれに
「〜なる」、「〜しよう」とし
目的を持ち、動機を持ち
欲望を持ち、願いを持ち
自分自身を超えようとしており、
愛を掴もうとし、
神になろうとしている
その複数の自我(エゴ)全てが自分が身体だと思いこみ
心配し
健康になるように、仕事がうまくいくように、家族の幸せが続くようにと願うのだ、祈るのだ
自分は身体と思っている
そして
それらは全てが分裂している、自分と自分以外に、内部と外部に

マインドであるが故に彼らは錯覚する

この自己とは、本当はその見られている欲望や動機や悲しみや苦しみや葛藤や恐怖や暴力そのものなのに

それを見ているところの観察者だと錯覚している

観察者が対象を観察しているのだと錯覚する

実際は観察者は観察されているものであるのに、である

そしてその観察者は自分が持続することを願い続けており、

継続していると錯覚する

これをエレブナの観点から自分なりに推測してみると

即ち、この有機体を脱いで、もう一枚の下に着ていた精妙体という体になっても

この自我(エゴ)は同じように、自分が生きている、自分が行為していると錯覚している

そして
その寄生していた自我(エゴ)は、精妙なる身体が転生のために観照者から離れる際には

それらはワサナという粗い記憶の意識の塊となり、下位の階層で休眠・休止状態に陥る

そして、更にまた
その観照者の原因体(という中位の記憶及び成果の塊)が、次の転生のサイクルに入るとき
(それらが寄生していた身体の「記憶の継続ボディー」である原因体が転生してくるときに)

それらのワサナは、新しく転生してきた原因体の身体の下位チャクラに同じようにして吸い込まれる、

そして私は輪廻転生しているのだと錯覚してしまう

個人や人格はマインドの記憶であり、それは存在しない

輪廻転生しているものは、この現象界を支えているプロセスだけである、誰もいない、私は何処にもいない

真我は転生の世界・現象界には関係がない、生まれもしないし、転生もしていない、と推測できる

この世界は錯覚だと言われている

観照者はその輪廻をずっと見つめている真の私(真我が現象界に触れている接点でもある)、でもある

転生している出来事を見続けているところの真の私である

そしてその転生の記録は観照者と一緒にいるコーザル記録体に記録されているのである

それは現象界に観照者が接点を持った各転生の記録がずっと続いている記憶の塊だ、

しかし、それは記憶の塊がコーザル体として記録され続いているだけで、

それは全くもって真の私ではない

それは私ではない

真の私とは「観察者なしで見なさい、見るものなしで見なさい」と言われている、その眼そのものである

その非自己である全体の私である、宇宙である私である真我である

これが真の眼であり、真の私であり、それは非自己でもある

従って、中間にある意識体(記憶の原因体)と同一化してはいけない、と私達は教えられている

なので誤って私と錯覚してはいけない

先覚者の方々は言い続ける

「あるがままをあるがままに見よ」と

だからこそ、私達はあるがままをあるがままに見るために

観察者なしに見ようではないか


だから、「観察者が見ている観察は観察を否定している」ことに気がつこうではないか

「見るものという自己が見るということは、見ることを否定している」事実に気がつこうではないか

これらはマインド自身が分離して作りだした偽の私というもの(即ち「多くの自分・多者」)を
主体としての自分自身だと錯覚しているだけだと言うことだ

この偽の私では決して、あるがままを見ることは出来ないということだ

何故なら、その自己とはマインドが自身を分離して、主体と客体とに分割し、作りだした記憶の塊であり

「この自我(エゴ)」には眼というものがないということなのだ

実を言うと、これらは単に思考であり記憶なので眼を持っていないのである

なので肉体のこのシステムを利用し、
頭脳から視神経に頼って外界を認識し、

自分は生きている、自分は肉体である、自分は行為者であると錯覚しているのだ

これらが自身を人格であり、個人であり、「自分・自己」だと思っているに過ぎないと言うことを
ハッキリと認識することが出来る

この自我(エゴ)即ちこの自己、この意識されている私、

これらの複数の自我(エゴ)が

記憶し、認識し、体験し、思考し、愛?し、苦しみ、苦悩し、心配し、恐怖して、人生を生きていると錯覚している

個人の行為者だと思っている

しかし行為は肉体を通じ、頭脳を通じて起こる、この現象界はこの複数の自我(エゴ)に関係なく

上映されていく


この行為者、人生を生きていると錯覚する私・自我(エゴ)は実際には眼を持っていないのだ

肉体のシステムに取り憑いているだけなのだから

それが、この自我(エゴ)達・私の正体だ

それは多くの私・多者だ

自我(エゴ)・私は複数であり

それが私を詐称しているのだ

真の私はそれらの複数の自我(エゴ)・私では無い

真の私は非自己である

そしてその真の私である非自己は

眼を持っている

宇宙の眼を持っているのである、というより眼そのものである

と、そのように言われている

そしてそれがクリシュナムルティーのいう

眼であり、この目でもって見ること

即ちこれが

「観察者なしで見ること、見るものなしで見ること」である

と思われる







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