現在のパーソナリティーに自由意志はあるか
昨今の精神世界で大きな間違いが見受けられる・・それは自由意志のことである
その間違いは、現在のパーソナリティー(サイコ・ノエティック体)と現在意識との混同から発生している
現在のパーソナリティーとは「現象界に接点を持っている魂」の延長、若しくは投射であるのだ
魂が脳に繋がれたので、魂から魂に収納されていた現在のパーソナリティーが意識の座に投射されて
生の継続をし始めたのだと(但し過去世を思い出すことなく)
この現在のパーソナリティー
それは現在意識そのものではない、現在意識の座に現われている「表象や意象や知覚」を対象として
時間と空間と分離を認識している主体だ
(しかしその主体は魂とに繋がっているので、主体とは魂でも有るともいえる)
そして脳内に投射されている現在のパーソナリティーという主体が(魂の延長の接点が)現在意識の座にあるので
現在のパーソナリティーは現在のパーソナリティー以外の数多くの意識や、思考や、感情や、衝動や、欲望等とも
現在意志の座に於いて接触し、それらが自分であり、自分の思考や感情だと思い込んでいる
現在のパーソナリティーにとっては「それら、自分が【類は友を集めるの法則】によって引き寄せた事象」ではなくて
自分そのものに注意を向けることだ。
この場合の自分とは観照者である魂の自分から派生している現在のパーソナリティーのことだ、
思考と感情と行為を観察している観察者と言われている主体のことである(この観察者こそが観察されている
ものなのであり個我という私だ)
ということは
個我・現在のパーソナリティー自身の思考や、感情と、思いと、行為が勿論、一番に大切であり重要事であることだ。
それであるにもかかわらず、間違ったアドヴァイタにより
『現在のパーソナリティー(個我)』と、その『エレメンタル・記憶であり、「記憶の反応である自我」』とが混同されてしまい
(記憶の反応と言っても想念形態の持つ記憶、肉体の持つ記憶、個我の記憶、魂の記憶、アストラルアカシックの記憶
スーパーサブスタンスのアカシック記憶などあり単に記憶といってもどの記憶なのかで内容は天と地ほど異なっている)
そうして自我を現在のパーソナリティーとが一緒に思われてしまったのだ。
現在のパーソナリティーとは観察者である。
現在のパーソナリティーとは観察者によって観察されている思考と感情と記憶である
(これは観照者や目撃者と言われる魂・永遠のパーソナリティーではない。魂は観察者を観照している)
間違っている教えは言う(真実の中に1%の間違いが入っている教えのことである)
現在のパーソナリティーとは自我だと・・・。自己とは記憶であり、観念に過ぎない。その観念の自己は自己ではないと・・
私は真我であり、私は実在していると(この部分は正しいのであるが・・)
このようにして魂から派生している現在のパーソナリティーとは観念に過ぎないことになってしまったのだ
(しかし、そう思っているのが現在のパーソナリティーであり、そう思っていることこそが現在のパーソナリティーの意志であり
思考であり、行為しているのであるにもかかわらずだ)
そうしてこの自己(個我を自我だとおもって)とは映像であるから自由意志もなく、自我も行為も肉体も映像として起きてい
るのだから自己(自我のことを個我と思い込んで)は行為もしていない・・・自己はいない・・と、いうことになった・・。
・・・このようにして間違ったアドヴァイタの教えが広まってしまったのである
(元来説明できない真我の状態というものをぎりぎり直覚で述べているようで、真我の状態でない状態を述べている)
思考や感情や行為の全てが起こっており、それは根源からの映像であり、肉体も自我も思考も出来事も映像であり
脳内で(肉体で)起こっている映像であると思い込んでしまったのである、
この個我と自我を混同した教えによって現在のパーソナリティーの行為や思考や感情さえもが、起こっている事だと
説明されてしまうのだ
それはそうではないのだ、この間違っている教えでさえも自由意志がある現在のパーソナリティーによって信じ込み
思い込み、単に認識されていることなのである
脳内で起こっている思考や感情や欲望や衝動と、個我を一緒くたにして、「思考したり行為したりしている私」は
存在していない、と。 それらの私とは「私という観念であり、その観念は実在しない」と言うのである
これを言っているのは勿論、現在のパーソナリティーである、
しかし真我であるのならそのようには言わないだろう、真我には真我しか見えないであろう、真我には愛と完全完璧
しか見えないことであろうし、見ている者はいないことであろう、貴方が私であり、全てがひとつであることだろう
そうして、その真我の愛によって現在のパーソナリティーでさえも真我にとっての一部分だと感じる事だろう
何故なら現在のパーソナリティーでさえ魂の一部であり、魂は真我の一部であるからだ、分離していないのである
此処が一番大切であるし、
多くの間違った似非アドヴァイタの教えによって間違って解釈されている部分でもある
確かに、この二元に分離分割されている「顕現されている次元世界」では
個人の脳内や、この肉体や、この主体によって知覚される「出来事」とは正確に「全能の意志」によって起こっている
ことではある
けれども私達にも自律神経系と体性神経系があるように
「全能の意志」によって起こっている部分と現在のパーソナリティーが自由意志によって起こしている部分が
あるのである
真実とは私達現在のパーソナリティーには自由意志がないのではなく、注意して自由意志を行使するように
求められているのだ
だから現在のパーソナリティーには以下のように注意をすることを求められている
(これは責任を伴う個我の自由意志の行使であり、エゴという記憶の反応が自由意志を持っていると錯覚し
ている、という状態ではない
現在のパーソナリティーが
「自分には自由意志はなく、内と外で起こっている事は根源からの映像である」と、思い込んでしまい、さらにその
ように思い込みの力で、脳内ホルモンが発生し、その結果として脳内でそのように体験をしたとしても、現実は
そのように「自分は行為していないと信じている現在のパーソナリティー」が行為をしているのである。
同じように
私は思考はしておらず、思考が起こっているのだと、そのように信じ込んでいても現在の私は思考を自由意志で
思考しているのである。私は思考していない、行為していないと、そのように思考し行為しているのである。
自分という主体である現在のパーソナリティーには自由があるので、自由意志でもって
私は自由意志がないと意志しているのだ・・・これこそが自由意志のある私達の自由意志による
自由意志の証拠なのである)
だからミルダットは言う
『いかに呼吸するのか、いかに喋るか、何を願い、何を思い、何を行うかに注意せよ。
なぜなら貴方の意志は、一つ一つの息、一つ一つの言葉、一つ一つの願い、一つ一つの思い、
一つ一つに行為の中にまでも隠されているからだ。
そして貴方という現在のパーソナリティーに隠されているものは〈全能の意志〉には常に露わだ』と
また現在のパーソナリティー自身の意識とは魂からの投射または延長でもあるので、魂とも繋がっている
(けれども、現在のパーソナリティーは脳に縛られているので、自身の魂を知覚できずにおり・・・自分は魂と繋がっていない
のだと、そのように思い込んでいる・・私は映像であり、自分には自由意志もなく、行為は起きているのであると思い込ん
でしまったのだ・・)
実際には魂からの高次思考や高次感情や高次な願い、高次な愛も現在のパーソナリティーに届いているのである
ただそれを認識できないのである。魂の輝きが未だに弱いからである
けれどもその魂の内奥には真の私(全体なる)が実在している
ただ、現在のパーソナリティーには過去の現在のパーソナリティーからの継続している部分
即ち前世の現在のパーソナリティーの記憶部分であるコーザル体が思い出さないようにブロックされているので
「私とは肉体を持ったこの私だ、名前が●●だ」と思ってしまうのである
しかし、この記憶が遮断されていることとは恩寵ではないだろうか
確かに間違った似非アドヴァイタにも真実に近い部分があるのではあるけれども・・・
過去の現在のパーソナリティーの思考と感情の刈り取り部分は正確に全能の意志によって、決まっていることであろう
ミルダットは更に言う
「その時間と場所と有り様をも貴方が選んだのである」
「〈時間〉と〈空間〉のうちに偶発事はない。いかなることにも間違わず、いかなるものをも見過ごさない
〈全能の意志〉によってあらゆる出来事は定められている」
「〈全能の意志〉を受け入れなさい。その神秘の鞄からあなたに降り注がれる事物を、ぶつぶつ言わずに
全て受け入れなさい。
感謝を持って、そしてそれらが〈全能の意志〉のうちで自らの正当で当然の取り分だという信念をもって、
受け入れなさい。
それらの価値と意味を理解しようとする意志をもって受け入れなさい」
「万物への意識を成長させて始めてあなたは、自らの内にある万物の意志や、万物のうちにあるあなた
の意志を意識できるようになる。
万物の内にある貴方の意志と、貴方の内にある万物の意志を意識するようになって初めて、あなたは、
〈全能の意志〉の神秘を知る事が出来る。
そして〈全能の意志〉の神秘を知るまでは、
自らの意志を〈全能の意志〉に反して立てないようにしなさい。」
ともいわれている
この私達、魂に繋がっている現在の私は、それ故にこそ
自分の自由意志と行為によって、「全能の意志」を受け入れ
自分の自由意志と行為によって、「神聖なる愛」を受け入れようではないか