あるがままで在りなさい、なろう、至ろうとすることを止めなさい
正覚者の方がたは揃って言われている
「あるがままで在りなさい・あるがままをあるがままに見なさい」と
その,あるがままで在るとき、そこに、真の変革が、真の本当の奇跡が起こるのだと
即ち、静寂と沈黙が訪れると
私たちは、いつも、常に、あるがままで在ることが出来ない、何かに至ろう、何かで有ろうとしている
また、真にあるがままをあるがままに見ることが出来ない、そのあるがままに出会った瞬間にそれから避けようとし、それを直視しない
あるがままは素早い、そして私たちの思考の反応はそのあるがままの出現から一瞬の間をおいて始まる、
そして、そのあるがままを批判し、自分自身がそのあるがままであるのに、そうでないものであるもの、若しくはそうでないものになろうとし偽装する
それこそが自我(エゴ)が介入し、時間が介入していることだ、それが、それこそが、いつもの私たちの頭脳の条件付けられた反応なのである
これは真の行為ではなく、単なる条件付けの反応行動である。
私たちは行為しているわけではなく、このように、何かになろうとするようにと、プログラムされて、そのように条件行動を起こしているだけである
それを私たちは自分は行為している、私は行為者であると錯覚するようにプログラムされているだけである
この条件付け・プログラムとは
もっと良くならなければ、
もっと進歩しなければ、
もっと素晴らしく変わらなければ、変革し、進歩しなくては
愛するようにならなければ、
もっと深く体験しより深い境地に至らなければ、真我に至らなければ
もっと素晴らしい真我の、そして愛の体験をしなければ
もっと霊的に向上し、自我(エゴ)を撲滅させなければ、など色々だが
ともかく、常にもっと努力し、
何かになろう、
何かを得よう、
何かに至ろう、
神に至ろう、体験しようとしている
そう言うわけで
マインドである自我(エゴ)は、即ち時間は、常に何かになろうとしているのだ
進歩し、深化し、究極に至ろう、真実に至ろうとしている
その何かになろうとすることそのものが、
常に今・此処に在ることが出来ずに、将来に、良くなろうとして、
努力し、改善し、進むことがその時間であるマインド自我(エゴ)の最大の特徴の一つなので有ると思われる
であるからして
自我(エゴ)である私は、「あるがままで在ること」が出来ない。「今此処」に在ることができないのだ。
「今此処・あるがまま」だけが実在への門である「沈黙」へと導くことが出来ると言われているのに
何処か、成ること、至ることだと思っている、何かを体験して究極に至ると思っている
自分が何かに成る、又は至ることだと思っている
将来のことだと思っている、未来という時間内のことだとおもっている。
そしてその為に色々と努力し、何かを為し、ワークをし、活動に参加し、業法を行い、瞑想して、講習会に参加して、色々と良くなるようになにかを行う
しかし、それは起こるのだ、成るのではなく、するのではなく、方法ではない、至るのではない、それは起こる!!
そして、真の実在への門である沈黙は私たちを内側で待っているのだ、
今此処で、
そして、その未知なるものは「あるがままをあるがままに見て、あるがままで在ること」を望んでいるのだ
良くなろう、何かになろう、と何かを常に努力することが、その事自体が、
即ち
その良くなろうとし、良くなるために行うことをしている私が、そのなろうとしているものとは反対のものであるもの
即ち「あるがまま」のものであるかを示している
あるがままとは、私がそうであってはならないと思っているものだ
私は、その欲望であり、この暴力であり、思いやりのない無関心なのだ、恐怖・不安なのだ、マインドなのだ
そして、そのあるがままがそのあるがままの自分から逃避して、何かになろうとして行い、為すことが努力であり、条件反応なのだ
だから覚者はいう
「何もすることはない」
「何処にも行く必要もない」
「何かになる必要もない」
進歩する、良くなる、神に至る、悟る、愛を与えられるようになる、等の改善・改良はマインド・時間の罠であり、条件付けられた自我(エゴ)の行動である
それは、あるがままからの、現実からの逃避である
あるがままの中にこそ鍵があるというのに、そこから逃避している
この「あるがまま」こそが門である
この「私の自我(エゴ)」が門である
この私の恐怖が、暴力が、切れてカットなる短気が、愛のなさが、思いやりのなさが、常に何かになろうとして動き回りもとめていることが、あるがままである
人より名前が先に挙げられることを願い、ひとかどの者になろうとして常に競争し、金持ちであろう、健康であろうとしている、この欲望が、このあるがままである
恐怖が、暴力が、嫉妬が、高慢が、心配が、愛のなさが、憎しみが、自分のことを常に心配し、自己関心におおわれている、このあるがままである
病気で、収入が少なく、将来を心配し、死後のことも心配し、苦悩している自分のこの私の現実のこの姿こそがあるがままである
私たちは、常に、このあるがままから逃避している、常にあるがままをあるがまま見ることをしない、常にあるがままで在ることがない
そして常に何かになろうとしている
しかし
このあるがままこそが私であり、私があるがままなのだ
だから何処にも行けないし、何にも成らないのだ、何処にも行く必要がないのだ、あるがままを見ている私こそが、その対象である暴力そのものなのだ
自分の中に、憎悪を見て、何かになろうとしているものこそがその憎悪なのだ
私が暴力を観察しているのではない、私が、即、暴力なのだ
しかも、その憎悪を正しく見ていないのだ、
実際はその憎悪から逃避し、良い自分になろうと努力するという逃避行動をしているだけであり
その憎悪をあるがままに見ているわけではない
その恐怖をあるがままに見ているわけではない
その憎悪を、恐怖を、不安を、あるがままに、何の歪曲もなしに、観察するもの無しに、選択無しに、同時に私自身として見ることが出来たとき
その憎悪が、その恐怖が、その不安が、大いなる奇跡を引き起こし、もの凄いエネルギーの転換が生じると言われている
残念ながら、私はまだこの憎悪に、この恐怖に、この不安に出会っていない、また見てもいない、残念ながらそれを対象として分割して認識してしまっている
私は、常にそれから逃げようとし、それを批判したり、それから避けようとしたり、これの、反対のものである「愛」や「神」や「実在・真我」という観念に隠れて逃避してしまっている
この憎悪や恐怖は大変に素早い、だからこのあるがままを見て、あるがままであるためには、まず自分が逃避せず、この憎悪や恐怖を愛し、この大変に素早いところの、憎悪や恐怖というものに、言葉や、観念や、思考無しに、直接にじっくりと出会わなければならない
だから逃げてはいけない、覚悟を決めて内面に向かわなければならない
成ろうとしてはいけない、それは私ではないマインドの動きだ
良くなろう、至ろう、いいことをしようとしてはいけない。これはあるがままからの逃避である
私たちこそが、この分離性であり、この憎悪や、恐怖自身であるのに、
果たして、何かに成ること、良くなること、愛すること、神に、全体に成ることが出来るのだろうか。
私たち自身のこの分離性の本質そのものが憎悪であり恐怖であるので、それはいくら愛を装い、良いことをしようとしても、そこの奥には常に、それを認識し、観察し、知覚している者がいる。
それこそが分離した「わ・た・し・自我・観察者、知覚者、経験者」であるところの、この自分自身である。
それを自我(エゴ)であると、他人事のように言うことすら出来ない、それは実際のこの私自身なのだ
そして、この暴力と恐怖が即、この私であることで在るとき
そして私がそれに思考無しで直面するとき、私が暴力と恐怖を見ているのではなくて、この暴力と恐怖が私であるとき
そのとき、そこに大いなる奇跡が起きている、と覚者はいわれる
何も求めず
何かになろうともせず
何かで在ろうともせず
何処にも行かず
今此処で在るとき
私がこのあるがままで在るとき
そこに
真の私である実在への門が出現するといわれる
それが沈黙であり
何かの修行をしたり、何かのワークをしたり、何かのマントラを唱えたり、なにかになるためにすることではない、何の動機も、目的ももたないとき
このあるがままの真実の中に
このあるがままをあるがままに見るとき、そしてあるがままで在るとき!
虚偽を虚偽と見ることの中に
闇を闇と見ることのなかに
その虚偽ではないものが
その闇ではないものが
そっと姿を現している
と言われます