思考も思考する人も経験も経験する人もただ起こっている
ニサルガダッタ・マハラジは言う
『あなたに恐れや欲望が起こったときに去らねばならないのは
欲望や恐れではなく、欲望を持ったり恐れたりする個人なのだ
欲望や恐れは完全に自然で正当なものかもしれずそれと闘うことは要点を外している
それらによって動揺させられる個人が過去と未来に於ける誤りの原因なのだ
この個人が注意深く調べられその虚偽性が見られなくてはならない
その時あなたに対するその支配力は終焉するだろう』
『あなた自身を絶え間なく見守りなさい
そうすればあなたの努力なしに無意識は意識の中へ流れてくるだろう
ひとたび意識と無意識が混ざり合えば二つは一つとなり、一つはすべてとなる
個人は観照者の中へ溶け
観照者は気づきに中へ
気づきは純粋な存在の中へ溶ける
それでもアイデンティティは失われない、ただその限界が失われ変容されて真我、サットグル、永遠の友達そして導き手
となるのだ
それには瞑想が欠かせない』
『虚偽を虚偽と見る事の中に真理はある
意識(マインド)を意識(マインド)としてあるがままに見ている事の中に気づきがある
だが意識の中に反映された気づきと、意識を超えた気づきには違いがある
その反映された気づきである「私は気づいている」という感覚は観照者だ、一方純粋なる気づきは実在の本質だ』
『身体とマインドを「私ではないもの」として正しく見なさい
体験する必要はない
変わる必要もない
見いだしたりするものは何もない、何も失われていないから
それは現れるだろう
それがあなたをその中へと連れて行くだろう
身体とマインドを「あなたではないもの」として正しく見なさい』
『起こる事の全てはマインドの中で起こる
それはマインドの中で起こり「私は在る」の源で起こるのではない
ひとたび全てはひとりでに起こるのであると悟りなさい』
『全ての体験はマインドの中に在る
実在として在ることによって実在を知るのだ
あなたの身体と共にマインドは時間によって支配されている
ただ気づきだけが時間を超えている、それは今、超えているのだ
気づきの中であなたは事実(あるがまま)に直面する、実在は事実を好むのだ』
『私は身体だという観念を超えたとき
時間と空間は私の中にあり
私が時間と空間の中にあるのではないことを発見する
私は身体とは完全に相容れないものだ
肉体は表現体ではなく、表現体はマインドとハートであり、肉体を超えている』
そしてニサルガダッタ・マハラジから覚醒したラメッシは言う
『自由が起こるのは「私は自分自身の意志によって自分の人生を生きている」
という愚かな観念と傲慢が落ちるときです』
『自己覚醒すなわち悟りとは
自分であれ、他の誰であれ、どんな行為にも個人的な行為者はいないと言うことを、
最も深く理解することに他なりません
あなたはまた、どんな思考を考える人でもありませんし
またどんな経験の経験者でもありません
思考も経験もただ起こるのです』