聖なる御方の出現

昨日私の親しい友人から電話があった
その友人が言うには、2・3日前にドライブ中、突然に澄み切った青空に,光の十字架が、それも空の涯にまで届くかと思われるほどの大きさの光り輝く十字架が出現したのだった。
そして急いで車を道路の脇に停車させ、その光り輝く十字架を見つめたが、その輝く十字架は一向に輝度を落とすことなく、その青空に浮かんでいたそうである。
そして、帰路につき、その夜、自宅で瞑想をしていると、3人の聖なる御方が出現され、無言で優しく微笑むのであった。
そしてそのとき大いなる歓喜と祝福に満たされたそうである。

キリストが出現したり、天使が出現したり、神が出現したり、マートレーヤーが出現することは良く聞くが、
それと同じように友人に起こった出来事は、
私たちの知覚(マインドの二元性である)の対象としての聖なる御方の出現である。

その聖なる御方の出現とは一体どういう事なのであろうか。

これは、

このような二元性の知覚の網で捉えられる神とは果たして聖なる御方であるだろうか?

私たちの知覚自体が自他を分離しているマインドの状態であるとき

見る者と、見られる者という根本的な錯覚を生み出す。

そしてその錯覚の中で、見ている「自分」の対象としての神?が出現するのである。

これは果たして聖なる御方の出現だろうか?

もし本物の聖なる御方であるなら、

私という幻想が消滅している状態の中で「見るものは見られるものである」状態として、
「われはそれとして」、非二元性の状態そのもの、として出現するのではないだろうか。

即ち、
その道端で遊んでいる子供が私自身であった。
また、病院で手術を受けて苦しんでいるその患者さんが私自身であった。
またアスファルトの切れ目から顔をのぞかしている小さな一輪の雑草が私であった。
また空を飛ぶ一羽の小鳥が私自身であった、と。

このように「私はそれである」、という非分離性・非二元性こそが聖なる御方そのものであって、
この自他の分離のない状態こそが、真の神の出現である。

そのとき私は全く存在しておらず。
だからこそ「見るものは見られるものである」であり。
観察者は観察されるものであり。
経験者は経験されるものであり。
知覚者は知覚されるものである。

と同時に

見る者も見られるものもおらず。
観察する者も、観察されるものもおらず。
知覚する者も、知覚されるものもおらず。

世界は私であり
宇宙は私である

世界は吾が中に在り
宇宙は吾が中に在り

同時に何事も起きていない状態であり、私も世界も存在していない状態である。

とそのように覚者がたは言われている。

これが聖なる御方の出現であり

(分離したマインドに覆われている状態の中での)私たちの肉眼や霊眼で知覚される対象として出現した聖なる御方とは、決して聖なる御方ではない。

私は炉端に咲く名も知れぬ一輪の花であり、その隣の小さな石ころである。
又汗を流して道路を修繕しているあの日雇い労働者でもある。

その花が、石ころが、労働者が私自身であるとき、

そのとき、それが聖なる御方の出現であり、初めから私自身であった真我の出現である。

それは、私たちの目や霊眼の対象として出現する、「権威の対象」などでは決してない。

聖なる御方は絶対に「絶対権威」として、私たちの対象として、「神」と名乗って出現したり、自身の外部や内部に対象として出現することはない。

何故なら

聖なる御方とは純粋なる主体であり、真の私であり、私から一時も離れたことのない私自身であり、対象とはならない真実の「わたし・主体」であるからである。


それはアセンションでやってくるものでもないし

アセンションで到達する状態でもないし、

何かのワークやセッションや努力で獲得されることでもない。

人類全体として自動的にアセンションで実現されることでもない。

聖なる御方は私自身として

既に「今・此処」に在る。

既に此処に、「今」、実現している。

と多くの覚者によって言われているではないか。


世界や宇宙を自分の外側に捉えて錯覚し、そのように内部と外部に分割し、そのように想像して

神実現しようとしたり、真我を実現しようとすることは錯覚に陥ったものの行動だ。


自分が魂や、その魂が乗る肉体であると想像したり

その錯覚を起こしている魂が作りだした自我(エゴ)が、私であると、勝手に想像するのを止めようではないか。

映画のスクリーンの登場人物達と自分を同一化するのを止めようではないか。

それらの登場人物のいる映画は、私たちと関係なく上映されるであろう。

そこには自我(エゴ)があり、肉体と同一視している魂があり、生があり、死があり、輪廻があり、進化があり、退化があるだろう。

アセンションもあれば、その逆もあるだろう。

しかしそれは映像である。

映像は私たちではない。

映像の正体は、見る者と、見られる者の分離であり、それはまた空間と時間であり、この偽の私という想像物を生み出したマインドである。

ラマナ・マハリシ達の覚者がたは、実は何も起こっていないのだという。

だから

アセンションに振り回されることなく

宇宙は私たちの中にしか存在していないことをハッキリと認識しようではないか。


肉体も、自我(エゴ)も、肉体と同一視している魂も、出来事も、世界も、宇宙も
それは起きている。起こっている。筋書き通りに、一分の狂いなく。

そしてそれを見ている者、即ち観察者こそが


それらの観察者を生み出したマインドそのもの自体である。

そしてその私というマインドが根本第1想念と言われるもので、真我から浮かび上がった非実在であると

ラマナ・マハリシは言われる。


見る者、観察者こそがその見られるもの、観察されるものであるマインドによって生み出された偽の主体である。

この二元性・分離は嘘である。本当は一つであると言われている。


主体である見る者も観察者も、そして対象である見られるものも、観察されるものも、一つであるとき

それこそが、聖なる御方の出現である。

この「見るものは見られるものである」であるとき

対象としての神はいない。対象それ自体がないからであり、内も外という分離がないからであり、そして神と私は分離していない。

貴方は私であり、それは私であり、私はそれであるからである。


そしてこの状態が本当の聖なる御方の出現なのである。

と、そのように教えられているではないか。






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