観照者・わたし・真の主体
ニサルガダッタ・マハラジはいう
「個人は決して主体ではあり得ない
あなたは個人を見ることが出来るが
あなたは個人ではない
あなたは常に至高なるものであり
その至高なるものが、
ある与えられた時間と空間において
観照者として現れたのだ
その観照者が至高なるものの純粋なる覚醒と、
個人の多様な意識の間に橋を渡すのだ」
「意識の源は、意識のなかの対象ではありえない。
源を知ると言うことは、源として在ると言うことだ。
あなたが個人ではなく純粋で静かなる観照者であり、
恐れのない気づきが真の存在だと悟ったとき、あなたは実在となる。
それが源であり、無尽蔵の可能性だ」
このニサルガダッタ・マハラジの言葉を聞くと
上江洲義秀先生のあの2006.09の沖縄の講話「私とは」のなかで
幾転生に渡ってこの個人をみつめ抱きしめてきたその私とは
ハッキリとそれが観照者であると言うことが分かる
しかし、私達の意識の中で認識と知覚の対象として個人が現れる
それが対象として常に内面に現れる
そして自分のマインドのなかでワサナ、サンスカーラとしての多くの個人がいて、
互いに自分の内面で争っている
「かれらは全く反駁しあっているのだ。
彼らをただの思考と感情の習慣、記憶と衝動として、あるがままに見なさい」
質問者がその個人である彼らは、互いに私と言っています、というと
「何故ならあなたは彼らと自分自身を自己同一視するからだ。
ひとたび、何であれあなたの前に現れたものは自分自身ではあり得ず、
「私は在る」と言うことは出来ない、
と認識すれば
あなたは全ての個人達と彼らの要求から自由になる。
私はあるという感覚はあなた自身のものだ。それを手放すことは出来ない。
しかしそれをあなたはそれを「私は若い、私は裕福だ」というように何にでも分け与えることができる。
ただそのような自己同一化は明らかに偽りであり、束縛となる原因なのだ」
ニサルガダッタ・マハラジは更に主体、真の主体について語っている
「至高なるものは最も到達しやすいものだ、何故ならそれはあなたの存在そのものだからだ。
考えることを止め
至高なるもの以外を求めないこと、それで充分だ」
またその求めることについては
「全宇宙が慈悲から生まれた欲望(前述・動機が愛と善意と慈悲によって生まれた欲望だけが主体にも対象にも有益であり充分満たされるのだ)を満たそうと努力しているのだ」
そして目覚める可能性については
「過去と未来が永遠の現在の中に共存しているのだ」
「自己がそれ自身を知るためにはそれと反対のもの、
非自己と直面しなければならない。
欲望は体験へと導く。体験は識別、無執着、自己知識ー解放へと導く。
そして解放とはいったい何だろうか?
それはあなたが生と死を超越したものだと知ることだ」
そして真我について
「真我以外に存在するものはない。
全ては一つであり、
全ては「私は在る」のなかに含まれる
目覚と夢見の状態に置いてそれは個人だ。
深い眠りとトゥリーヤ(第四の状態)のなかで、それは真我だ。
トゥリーヤの醒めた忘我の彼方に、至高の大いなる静寂の平和がある
だが本質的には全ては一つであり、現れと関わりを持っている。
無知の中で「見る者」は「見られるもの」となり、
智慧の中では「見ること」になる。
と