我見
(条件付けられた頭脳記憶と
その反応による記憶、その記
憶による反応、所謂日常的意識、マインドの状態)  

他見
(自我(エゴ)の一部の意識で
頭脳を経由した理性・知性
所謂、客観的自己観察の意識、複層的次元を含む意識の段階)                

離見の見
(観照者の意識)          

非見の見
(気づきの意識)
  

主観

客観

観照者の意識


主観も客観も共に条件付けの頭脳を経由した意識であることを見ている意識
全体の一部である観照者の意識

気づき


現在の人類レベルでは
全く考えられない
「我はそれなり」の非二元性
の意識

知覚

超知覚


(所謂、霊聴、霊視、霊感、過去未来の透視など)

アチューメント

他人や動物や、樹々や物質や、多次元界などのその対象の持つ意識を感じ、理解し、分かること

テオーシス


人や動物や植物の意識をそれ
自身の意識として感じるのでは
なく自分自身がそのもの自身で
ある、完全な非二元性「我はそ
れなり」の意識

自由は全くない

自我(エゴ)が行為者と錯覚している、ロボットとして生きているのにも関わらず、自由に人生を謳歌していると考えている
外部からやってきている思考
や感情や想念を、自分自身が考え、感じ、思っていると錯覚し、それらの思考や感情に同一化し、自分が思考者、行為者、だとおもっており、自分の人生だと思っている

「気づき」に向かう自由だけは在る

自己の態度を決める自由のみはある、が意志、欲望、感情、思考は肉体や出来事と同じように根源から起きており、それには全く関与していないにもかかわらず、自由があり自由意志があり自由が在ると錯覚している

自由である

外部のものである、私という個別性、個人はマインドの創作物である、私は肉体ではない、私とは思考や想念ではない、私とは単に頭脳を経由したマインドの記憶であって存在はしていない、これに引き替え真の私はマインドや意識から自由である

完全なる自由そのもの

宇宙と世界はブラフマンの中にあり、そのブラフマンの道具が意識とマインドであると思われる、私であるアートマンは、実はブラフマンでもある
私が世界であり、世界が私である

催眠装置(見ることで発生する痛みを感じないようにする)が駆動している状態

マインドと自我(エゴ)の本質であるところの自分自身の苦しみと恐怖と悲しみを見ることのない様に、自己観察は閉ざされている、自我(エゴ)に出会うことのない様にセットされている

自我(エゴ・マインド・記憶)に直面している

自己の本質である苦悩と悲惨と恐怖と不安に気がつき逃げようとする、そしてそれら恐怖などは、自分が見ている対象であり、自分そのものではないと錯覚しているが本当はその自我(エゴ)自身が観察者なのである

自我(エゴ)の終焉

真の私の目覚め
正しい自己観察、自己想起の開始、実践
「見るものは見られるものである」観察者は観察されるものであるの理解

真我の実現

真の私や真我はどこか実相界や神からやって来るのではなく、このあるがままの自己を思考を使わずにあるがままに見ること、この事がそのまま覚醒である、真我は今此処のこの苦悩のマインドの正見のただ中にこそ在る

自己観察は行われていない

しかし勿論、自己意識はあるので、自分は自分のことを分かっているのだと勘違いしている
マインドの自己意識を自己観察と取り違えている、神の信仰を持ち、神を外部にあるもの、真我とはこのマインドとは全く別だと思っている、真我実現と、神実現を瞑想や業法、修練の様に〜すること、〜なることと錯覚している

自己観察

自己観察は行っているが、マインドや意識を観察の対象として観察している
そして、観察者は観察される対象の分離したものだと気づく
更に観察者が見ているものは観察者自身であって、あるがままではないのだと気づく、あるがままのこの悲惨と苦悩と暴力と恐怖に直面すること、私自身として、だから今、此処にこそ鍵はある

自己想起(受動的凝視)

見られる対象と見る主体に対して同時に思考を使わずに注意している状態(但し見るものなしに、観察者なしに、自我(エゴ)の働きを見なければならない、記憶自身を正見することが必須である)

あるがままをあるがままにみる

泥沼から蓮の花が咲くように、真我はこのマインドという泥沼からのみ咲くことが出来る、何処にも行かない、何も求めない、何にもならない、何もしないあるがままを正見することの中にのみ真我の実現はある

自己関心
自己忘却 私は貴方、あなたはわたし 自他分離の消滅、自他一体

〜良くなる事への努力

(自己偽善の分離作用の罠にはまる)
正しい超努力

(正しく見る事への超努力、四六時中の気づきへの、努力)
八正道の実践
は自動的に行われる
努力の消滅
(為すことは全て愛)

マインドと意識に同一化している

願いを欲望や願望を持っている
動機を持っている
目的を持っている
それに至る方法を尋ねること
(それらはマインドの特徴である)
自己の欲望の成就を願うことなのに神を求めていると錯覚する
聖書や真我覚醒の知識などに触れて理解したと錯覚し、実際の理解から遠ざかっていく

以下のマインドの働きに気づく

〜良くなろうとしている
〜をしようとしている(行為)
〜真我実現しようとしている
悟ろうとしている、愛深くなろうとしている
見るもの無しの見ることは不可能だと思ってしまうこと
気づきがやって来ると期待していること
(上記の働きは全てマインド自体の働きである)マインドを正見することがマインドという自己からの解放であり、真我の知識は解放をもたらさない

意識・マインドの働きから離れること

〜になろうとしない
今此処にただあること、あるがままに在ること、何処にも行かないこと
一切を何も願わないこと(覚醒も真我実現も)
一切何もしないこと(見ることも在ることも)でただ注意している
静寂の訪れ
沈黙の始まり
空の中に
無限の中に

気づきに気づいている

既に真我そのものである
既に完全である、愛そのものである
既に最初から在る
生まれず、死なない
全体である、非二元性である
気づきの中に意識はある(しかし意識の中に気づきはない、同じく気づきが無くしては意識はない)

マインドを拒絶しようとしている

やってくる想念と戦っている、拒絶したり同一化したりする

マインドを意識している

見られている想念やマインドは見ている私自身であることに気がつき注意している

マインド・思考の停止

見ている私と見られている私であるマインドと意識の沈静消滅、観察者無しの観察
見るもの無しの見

気づき

あるがままをあるがままに見ている
 
意識がマインドに覆われている
 
意識が意識に気づいている

思考を自分とは別のものとして、ハッキリと認識している
高等思考が思考を見ている

思考の隙間の発見

無限の空間に現れては消える想念を観照している

第1想念の誕生の瞬間を見る

葛藤・不安・恐怖・悲しみ・苦しみ・痛み・憔悴に振り回されている
葛藤・不安・恐怖・悲しみ・苦しみ・痛み・憔悴は見ている自分そのものである、それらのマインドの中身が観察者であり、分離を生み出している 見るものと見られるものの消滅、主体と客体の分離の消滅
至福・静寂・平安・喜び・愛
思考・感情を超越した状態・一命一体


「我見」・「他見」・「離見の見」・「非見の見」について


意識のプロセスは我見→他見→離見の見→非見の見でもあると思われる
気づきも意識もマインドも見ることそのものである、見ることとはそれぞれの段階に於ける意識それ自体であるから
その意識の段階を見ることの段階と捉えて「我見→他見→離見の見→非見の見」と考えることが実際的である
これが所謂、見る目そのものの段階であり「凡人の目」「覚者の目」「仏陀の目」などと説明されることもある






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