推論:三つの私・三つの系列の流れ



 

 この三つの次元の私の系列がこの場に混在している

 けれども本当の意味で私と言えるのはこの魂である観照者だけである(マインドである記憶の私という自我を観照している

 【受動的に思考なく凝視している】ものである純粋なる魂であり、全てと分離していない私である)と覚者は言う。 

 この観照者の私とは「分離していない」、考えていない、思考していない、主体と客体という分離がなく、見る者と見られる

 ものという分離がなく、この魂の私は時間と空間に縛られていない。と

 このマインドの結果であるに過ぎない自動人形の自分を「今」から観照している私である、と

 この観照者は真我からやってきている、だからこそ真我に、ただひとつの全体に繋がっているのだと。

 私達であるこの自我から見ると,ここに三つの私の系列があるように見えるけれども真我から見た場合は真我しかないので

 はないか、そういうことなので思考が無い「今」には、自我はおらず、真我しか存在していないと教えられている。

 この魂の私には、過去も現在も未来もなく、今しかないと言われている。生まれることもなく、死ぬこともないと・・。

 真我と偽我が別々にあるのではなくて、真我と言う全体の私だけが存在していると言われている。 

 この大元の魂から見ると真我しかなく、そこから見た場合は真我→根源→プログラム→時間→マインド→精神身体機構と

 いう或る一つの流れ


 その記憶の自我という流れもなく。全ては分離しておらず、ただただ無限だけがあり、歓喜だけがあり、そして愛だけがあるという。

 真我→根源→プログラム→時間→マインド→精神身体機構とその記憶の自我が有るように見えるのはマインドが見ている

 証拠であると言う、マインドに於いてはこれらの進化が見えるが、真我に於いては進化はなく「今」だけがあると言うのだ。


 しかし頭脳を占有して現象を見させているのは、源泉からのマインドであり、源泉の道具である時間と思考・二元性であり、

 この精神身体機構とこの自我はそのマインドの結果でしかないと。(見させられているのは魂の系列であり自我の系列ではない)


 本当に!自我は存在していないのだと言われる。進歩して神に到ったり、悟ったりするような個別の自己は存在していないのだと。

 この自我とは記憶であり、記憶に過ぎないものが、私が生き、私が行為して、私が感じて、私が欲望しているのだと錯覚している。

 私が苦しみ、私が心配し、私が恐怖し、私が嫉妬し、私が悩んでいると信じ込んでいるが、それはプログラミングされて

 いる肉体精神機構が宇宙的な正確さでプログラムの通りに悩み、絶望し、苦しんでいるのだ。わたし自我でもなく魂でもない。



 その行い、考えているのは肉体精神機構を通して生きているプログラムという根源であり、自我でもなく、真我でもないのだと。



 私が行為しているのでもなく、私が欲望しているのでもなく、私が思っているのでもなく、根源が何兆という個別の肉体精神

 機構を使って根源が行為し、欲望し、個々の肉体で感じて知覚し、苦しみ、悩み、考え、怖れ、望み、思っているのである。と

 
 それなのに、この自我は自分が個人で分離しており、この私が、自分が、自分の自力で生きており、自分の人生だというのだ。

 この思い違い、錯覚、これこそが「この現在の私」という条件付けられたマインドの記憶であるものの意識状態で有る


 この時間であり、記憶でしかない意識こそ「私」という思考であり、プログラムの反応である結果でしかない「私」である

 この私・自我とは条件付けの反応であるものそのものである、だから対象を認識し、自分と外部が分離しているように思えて

 おり、本来なら分離などしていない筈の神や天使を自分以外の対象として認識したり経験したりすることが出来るわけである。

 
 より厳密には

 この自我は思考すらでもなく、感情でもなく、願ってもいない、反応だけだ、これらはマインドですらなく記憶からの反応である。

 
 自我とは思考ですらなく、プログラムによって機能が制限されている頭脳を経由してきた「条件付けられているマインド」の

 条件反応にしかすぎないと、

 気づきでもなく、マインドでもなく、単なる頭脳の条件付けの反応・・・これが私達が言うところの

 「意識」の実体だ。



 認識と知覚と感覚と意識の全てがプログラムである条件付けからの反応に過ぎない。そしてその反応が肉体精神機構と

 同一視して、そこに起きている思考や行為や感情や恐怖や願望や憎しみを自分が起こしていることだ錯覚している。

 この私である自我とは記憶であり、プログラムの反応である。

 この自我とは自分が行為していると思っている、思考していると思っているに過ぎない。


 自我も肉体精神機構も、それらが認識し体験している内部も外部も、根源がプログラムによって投影している結果であると

 いわれている。

 未来も現在も過去も、そして内部も外部も既にプログラムのなかに結果として存在している、同時に全てが既に存在している。

 なのに時間に騙されているのだと。時間によって騙されて、この結果にすぎない肉体精神機構と同一視してしまった魂の

 一部分が時間の中を歩んでいると思ってしまっているのだと、これは映像に過ぎないのだ!と


 一方自我と言えば自分が欲望していると思っている、自分が生きていると思っている、自分の運命だと、自分のカルだと思っている

 が、それは違う、行為し、思考し、運命を背負い、カルマに従って演じられ、投影されているのは自我ではなくて根源によって

 プログラムされ、マインドに依って演じられているこの肉体精神機構という、自らを表現している根源それ自体であるものである。と


 記憶である自我とはこの根源がプログラミングした肉体精神機構から生み出された付属物であり、肉体精神機構自体ではない。

 だから思考し行為しているのは肉体精神機構であり、この私という自我は行為していない、思考していない、生きていない。と


 根源がこの何百兆というプログラミングした肉体精神機構を使って自らを表現しているのである。行為しているのである。

 この個別の肉体精神機構であるものから生み出された記憶である私・自我とは恐怖と悲しみと憎悪と絶望であり、時間から

 成り立ち生まれたのである。条件反応の結果物である。



 要するに自我とはマインドの記憶であるに過ぎない。

 なので「自分はあらゆるものから分離し、周囲から独立した肉体を持っており、これがわたしだ」と思っているのだ。

 それがこの私、それがこの私達であり、人格や個性という意識を持っている記憶に過ぎないものである、この自我の記憶が

 さらに集合して、集合意識として(思考帯として)地球を取り巻き私達に影響を与え続けている



 だからこそ


 この私ではないのに「私だ!」と知覚する自我が、この「私ではない自我」によって知覚され認識される「私ではない自我」

 を抱きしめるのだ

 抱きしめるのだ!  分離することなく! この恐怖と悲しみと暴力と怒りとイライラと殺意と狂気の自我を感じきるのだ

 私ではない「この分離している自我」が、この私ではない「私だという自我」とひとつになるのだ、否、そもそも分離していない

 のである、最初から分離などなかったのであると、そのように見させられているだけなのだと、この私こそが自我なのである。

 人類は騙されているのだと、いな自らを欺いているのだと言われる

 この知覚し、対象として認識している私こそが「私ではないもの」すなわち自我であり、結果であり、記憶であり、条件反応

 の結果であり、存在していないものであると教えられている。



 私であるのなら、なにものをも対象として認識しないはずである。

 私とはプログラムの結果であり、主体だというけど主体ではないもの、結果でしかないものである、対象を認識している

 のだから偽の主体である、すなわち私ではない私もどきである。反応に過ぎないものである。

 主体であるのなら対象は存在せず、全てはただひとつであることだろう、

 主体であるのなら過去も未来も現在もなく、今の中に在り、完全完璧であることだろう

 主体であるのなら思考やマインドはなく、全てが内にあることだろう、世界も宇宙も吾が内にあることだろう


 思いも、欲望も、願望も、不安も、恐怖も、安全を願うことも、良くなろうと時間に縛られることも、頭脳も、肉体も

 行為も、誕生も、死亡も、そして再誕も肉体精神機構に起きている事である。

 映画が上映されている、この個体の頭脳に・・


 けれども魂の私は、この自我も、この肉体精神機構も、このカルマも、この物語も映像でしかないことを知っているに違いない


 ・・そういうことなので、マインドと頭脳の条件付け結果であるこの自我とは単なる記憶でしかない、私ではないものだと


 やってくること、運命や出来事やカルマも認識も知覚も体験も記憶も私のものではなく、私と言うこの自我には関係していなく

 ただただ肉体精神機構に起こっていることである、と教えられている

 出来事、運命、行為、感情、願望、思考、カルマそれはプログラムされた肉体精神機構に起こっている事である、自我

 に起こっているのではない、自我はその肉体精神機構に起きている事を自分そのものだと勘違いしたのだ

 魂はこれらを見せつけられている、だから鏡である魂は魂の大元に向かうのだ、これは現象という結果である映像だと悟るのだ

 
 記憶としての自我は何も行為していない。映像である行為と思考と運命とカルマと、ダルマ(演技は)は根源がプログラムという

 肉体精神機構に起こしていることである・・・自我は存在していない

 この認識が肉体精神機構に起ころうと起こるまいと事実は事実である・・本当に・・自我は存在していないのだと・・・


 従ってこの単なる結果であり、肉体精神機構の反応でしかないこの私を鋭敏に、そして受動的に「観察者は観察されるもの」として

 凝視することが、この存在していない私が終焉され解放されることを促していくのであると

 多くの覚者によって教えられている。