脳に束縛されている意識(魂)から、脳を自由に使用している意識(魂)へ

このところ連日、霊的な系統は若干それぞれ違うものの、真の私(空)の意識へと繋がった、若しくは繋がることが頻繁にある方々にお会いして、貴重なるお話をお伺いする機会を得たのでここに紹介したい(自分なりに解釈してあります)

その方はお話をしていて、肉体や思考などの所謂自分と思われているものの事を「このもの」と呼び捨てにしているので、その点について更に突っ込んで質問してみた

質問:「このもの」とは何ですか

答え:「このもの」とは、私ではないところの、この肉体でもあり、そしてこの頭脳を経由して起こっている運命やカルマや出来事や思考や感情です

質問:では、それらを認識している現在のあなたとは誰ですか

答え:「現在の私」は、この身体や出来事や運命や思考や記憶や感情やワサナやサムスカーラを、私ではないものとハッキリと知っている魂なので、それらの思考や感情と一体化しているところの「自我(エゴ)」というものではありませんし、私にとっては自我は既に脱落しています。脱落していると言うよりも、最初から「私はいなかった」ことを「確証した」のです。
自我(エゴ)というものは、それらのやってきている身体や行為や出来事やカルマと自己同一視しているマインドの記憶です
けれども現在の私は自我(エゴ)ではなく、空(無限の意識・空間)をこの現在の私の中にしっかりと見ております。

質問:ここで私と話をしている「現在のあなた」が空というものを分かるのですね

答え:空(真我)と久保さんと話をしている身体や頭脳とをつなげている媒体があります。それは空である無限の私を実感しているところの「マインドの一部」(久保:魂)でもあります。しかしそれは肉体や思考や感情などが起こっている頭脳という「このもの」ではありません。

質問:それはラマナ・マハリシのいう第1想念という「真我から発生している私と言う概念」といわれているものでもありますか?

答え:そのようでもありますが、私は思考や感情や肉体のように、外(久保:見方を変えれば内部)から頭脳にやってきているマインドの或る部分のように感じます

質問:自我(エゴ)に関してはどうでしょうか(久保:自我(エゴ)とは魂が身体を私と思っている想念記憶形態)

答え:「自我(エゴ)はいない」という実感は、小学生の2年からありましたが、完全に「自我(エゴ)はそもそも最初から存在していなかった」ということの覚醒が起きたのは20歳の時です、そして多くの付着していたワサナやサムスカーラが脱落していきました

質問:あなたにとっては、この質問している久保栄治とはどのように見えますか

答え:あなたは私自身です、けれどもあなたは私のことを「久保ではない別人」と見ていることを、私は見ています。

質問:それではあなたが見ている空、又は真の私とは何でしょうか

答え:それは「言葉」や「知識」や「知る」ことではありませんが、強いて表現しようとすれば「無限に無限に広がっている空間・意識若しくは空」と謂えますが自我(エゴ)があるかぎりはそれを正しくは認識できません

以上のように、ここでこのように自我(エゴ)が脱落したかたのことを紹介しましたが、現在、精神世界で広がっている、「高次な経験」「変性意識体験」などと言うことは、自我(エゴ)が脱落しないかぎりは、必ずや魂は再び「条件付けられている頭脳」にきつく縛られて「自由を失う」状態に戻るであろうことが危惧される

薬物や外部からの頭脳の一時的な条件付けの解除によりワンネス体験や恍惚状態を体験しても、それを体験している体験者や、経験している経験者がいる限りは、また魂は再び戻ってしまった頭脳の束縛を受けてしまい、狡猾なるマインドの時間領域に魂が引き戻されてしまうのではないだろうか

確かに、現在多くの方々には爆発的にそのような体験が起きているが、それの多くはこの条件付けられている頭脳に縛られている第一想念である魂の経験(魂のレベルがアップして)ではなく、この魂が縛られている頭脳の「或る」一時的状態であり、この魂の自我(エゴ)が終焉されていない限りは、必ずこの自我(エゴ)がこの魂を捉えて分離の世界に引き戻すことであろうと思われる。

であるので、この覚醒している彼のようにではなくて、自我(エゴ)の脱落を経ずに自我(エゴ)がまだ残存している限りは、たとえ神秘体験をしたとして「私は未知なるものを体験した、それは私にとっては未知なるものではなく、それは既知なるものとなった」「私は知っている、それを体験したから」「私はマインドではなくマインドを超越したものを経験した」というように逆に自我を強めて、頭脳に束縛される結果を招くことを見るのは悲しいことである。

私たちの、このような神秘体験やワンネス体験に於いては、それを体験している体験者がおり、それを観察している観察者がいる限りは、結局はこの神秘体験も「見るものと見られるものの二元・分離」という虚像次元・マトリックス次元でのできごとに引き戻されることであることを注意したい

ご存じのようにラマナ・マハリシ方は真の知ることや理解することや見ることの中には、知る主体も知られる対象もなく、「見るものなくして見なさい」と力説されている
だから通常の言葉の意味で「知ること」「理解すること」「見ること」とは、実際には知る主体と知られる客体という二元分離を前提にしているので、正確には真の体験(魂が観照者に一体となり繋がっている状態)では「知るもの」も「知られる客体」も意識されていないと言うことであろうと推測される
そういうわけで、もしその体験が本当の神秘体験や本当のワンネス体験であるならば、それを体験している体験者もなく、体験されている体験対象もなく、観察している観察者も、観察されている対象もなく完全な非二元・非分離の状態であると言うことであると思われる、それこそが自我(エゴ)が終焉し、魂が観照者と一体になった非二元状態であると推測される

であるからして、その体験した神秘体験の観察者が、いる限りは、それは本当のワンネス神秘体験ではないといえる。

この観察者である魂という第一想念が見る方向を内部に転換し、内側を見るとき、そこには上記に紹介した方々のように内側には無限に広がる空間・気づき意識が空としてあると言われている。
そこには見ている私はなく、真の私である観照者と一つになっている魂が(魂の帰還若しくは磔、第三の死)至福の中で無限の空を見ていると言われている。
左図では平面に書いてあるので観察者から観照者、真我とあるが観察者である魂は空間的にはその段階に応じてかなりの大きさであり、観照者は地球を内在し、真我はあらゆる空間に遍在し、時間的にはあらゆる時間を含んでいると思われ、時空を超えている。
これを頭脳との関連で考察すると、真我の座と言われる松果体は無限の空間に拡がっていると思われる。まさにミクロはマクロであり、最小は最大の次元である。
個人的考察
現在の顕在意識とは魂の一部分ではあるけれど
頭脳の条件付けによって生じた自我(エゴ)・人格という意識体に覆われており、感覚と思考と感情などによって頭脳と結ばれ、頭脳に縛られている
時々,魂の本体である観照者からの至高経験をするも、この魂自体の時間空間という次元領域の自他の分離、主体と客体の二元性から脱却できない。
とはいえ魂の空間的な大きさはその進化段階に応じて最高度に於いては宇宙大に拡がっているとも思える。
けれども、更にその魂を超えて遍在している「気づきの意識」からみると、未知なる空を体験しても、それを既知なる記憶領域で解釈してしまい「自分は未知なるものを知っている、経験した、この未知なることは私には既知なるものだ」という二元性の罠に陥ってしまう

真我の領域とは未知なる次元であり、知るものと知られるものが一つである状態であり、記憶や経験や体験や理解や知るという、主体と客体の分離を含んだ状態ではない、と言われており、真実の空の体験に於いてはそれを体験している体験者もなく、見ている観察者もなく、理解している理解者もなく、ただただ見るもの無くして見ている状態があるだけだと言われている
上記の想像図は便宜上平面的に記載してあるが、実際は空間的には同所にあり、三体の頭脳の脳下垂体・視床下部・松果体及びそれらが関係するチャクラ及びその機能と密接に繋がっており、空間的には第3の目、ハート付近に集中していると思われる

松果体は真我と、視床下部は魂と、脳下垂体は人格とそれぞれが密接に繋がり関係しているとも言われている。










この自我(エゴ)が終焉し、更に観照者と一つとなった魂が、永遠のパーソナリティーとして、又、真の私として復活し、再びこの身体の頭脳を使用して現象界に働きかけるとき、頭脳は条件付けを自動的に解かれ、頭脳の束縛を受けることなく、頭脳を使って、真我に帰還した魂は真の私の表現体として、魂の救済に従事することになる。
このステートが覚者たちであり上江洲義秀先生のいる境域であり次元であるのではないだろうか
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