「玉響の目」についての考察
玉響は良く写真に映ることが多いので
その玉響について考察してみた
写真に写り、この現在意識に覆われている知覚に映っていると言うことで
それは決して高次の存在ではない事が証明されるのである
高次の存在は魂の内奥に在って、それは知覚している主体ではなく、その知覚を超えたもので有るからである
それが知覚されない真の主体である。それは外部に或る時空間を占有している玉響のようなものではない。
知覚されている対象は、その知覚と同じ波動であるからこそ、この疑似主体である偽の私によって知覚し認識できている
そう言うことであるから
私達のサイキック体やメンタル体がこの四次元的な大きさを超えているのなら、玉響はそれらの幽体や霊体ですらない
のである
まして
魂という超次元の時空間を超えている意識であり、身体や形姿を持たないものは写真で捉えられたり目視できない
私達が神や大天使を対象として肉眼や霊眼で見るとしたら、それはこの自我と同じ波動の存在物であり決してそれは
神でも大天使でもない
高次の存在は肉眼や霊眼の対象ではなくて、既に内なる魂の内奥に在って私自身で在るところのものである。
それは決して目視したり写真に撮ることはない。
まして直接この肉体と接触することはない。
目視できたり、写真に写ったり、物質体で出てきたり、対象であるものは私達と同じ波動であり聖なる存在ではない
以上の理由から
玉響はサイコ・ノエティック体でもなく、勿論魂でもなく、私達の自我と同じ次元の波動のもので有ると言うことであり
それを決して美化してはいけない
美しいもの、愛であるもの、は時空を超えており、それは眼や霊眼やカメラによって捉えられるものではなくて
内なる魂の内奥に実在しているもので有り、それは内奥の私以外にはあり得ない
従って玉響は聖なる存在ではなく、魂や魂に属するもので有る諸身体ではない。