波は海が在るから生まれている
波は海がなかったら発生できるだろうか
海のない波はあることが出来るだろうか
海と波は分離していない
波は海の表現であると
聖者がたは繰り返し教えられる
存在
存在が在るので気づき(非二元性・非二元性・全体性・スクリーン)が在る
そして
気づきが在るので意識(現象世界・三界投影システム)があることが出来る
そして
意識があるのでマインド(認識されている思考や想念や感情・概念・第1想念)が有ることが出来る
そして
マインドが有るので記憶(人格や個人・通常の意識状態)が有ることが出来る
そして
記憶が有るので身体や世界が有ることが出来る
と
これは世界の聖者や覚者によって、同じことが言われていても
その聖者たちの傾向によって、強調される部分がどちら側かによって随分と表現に差が出てきたり
同じ事を指し示していても言葉は更に異なってきて
極端な場合はエレブナや上江洲義秀先生のように「EGO」(大文字であることに注意)や自我と言う言葉を
通常の私たちの言う自我ではなくて観照者と言う意味で使用しているので、
この聖者はこの言葉や言語で何を指し示しているのかを私達自身でその都度判断していかなければならない
特に「私」と言う言葉は
T:聖者にとっては、I AM THAT を指し示す真我としての私、
U:その真我の現象界に於ける顕現であり接点である観照者(根源スピリットやハイヤーセルフ等々)としての私
V:人類共通の共有自我(エゴ)の大元であり、無明そのものである第1想念・人類共通の分母としての根本想念の私、
W:そして、旅に出ていないのに真我と分離したと錯覚し、更に生まれ死ぬと錯覚し、最終には成就すると錯覚している私、
創作されたプログラムとしての私、(輪廻転生を続けている私・魂と呼称されている私、コーザル体としての私)
X:さらにこのプログラムのうち今回の物質界での人生の記憶である人格・個人としての私、
プログラムの結果としての私、成果としての私が意識され、自覚されている現在意識としての私
(サイコノエティック体の私、自分がこの個人・人格であると信じて疑わない私、幽界や霊界で暫く生活し、
再誕生時には高次部分はコーザル体(魂)に収納され、低次記憶は分離してワサナとなる私)
Y:このgXの私が霊界最終ステージで再転生するときに魂とは分離して凝固し、一旦本体から離れて待機し、このプログ
ラムである魂が意識界内に再誕生したとき、この継続している魂(この自我(エゴ)の本体であるプログラムされた私)
の使用する身体に引き寄せられていくところの過去生の低次記憶部分の私、それが即ちワサナとしての私
Z:魂としてのプログラムされた私と同様に、観照者というスクリーン上に同じようにプログラムされて認識され、経験され、
体験されるべく内部と外部に、やってくるものマインドを、私と混同している状態、
自我(エゴ)とマインドとの未分化の状態ではあるが、何とか良くなろうと藻掻き、葛藤し、願望し、欲望する
自我(エゴ)自身の更なる二重性部分
(認識し、経験し、知覚し、体験し、何かになろうとしているものの意識とは、スクリーン上の映像である自我(エゴ)
の一部分であり、そのマインド意識自体である)
Z:全く身体や思考や感情や欲望を自分だと思い込んでいる私、
機械的に情報や、マスコミや、伝統や、社会や、教育や、文化によってコントロールされ同一化してしまった状態の私
(偽の主体である私すら持っていない状態の私、願望や欲望すらコントロールされた私
個人や人格という自我(エゴ)すらも確立していない、操作されているロボット状態の私)
というように、聖者達の語る私と、テレビで芸能人が語る私とは、全くに関係はなく異っており、隔たっている。
この私と言う言葉や概念は一体何を指し示しているのかを、ハッキリと一人一人が見極めないと、大変な混乱をきたす、
がしかし、この私という言葉以上に混乱している言葉言語がある、
それが神や、愛や、魂や、スピリットや霊、等という言葉であると思われる。
スピリチュアル傾向の集会で、会話されている神や愛等という言葉が全く正反対のものであるにも関わらず、同じ言葉で
使用されている場合や、
それとは逆に
同じ状態を指し示しており、同じ次元であるのにも関わらず、両者が全く異なる言葉を使用しているために、言い争って
いることがあるのは、まさしくこの使用している言語それ自体の限界を指し示している。
さらに言語とは、言葉とはあくまでこのマインドのレベルでの次元でのみ通用している媒体であり、このマインド以上の
次元ではこの言葉や言語という媒体は全く用を為さない、この低次の次元では分離していると錯覚しているので、意志の
疎通の必要性が生じ、その結果として言語・言葉・知識・情報が生まれたのである
このマインド界の為にである
マインド界以上の意識界から上の次元では、言葉や言語や情報やそれの蓄積である知識とは、マインド界以下の次元で使用
されている分離的・二元的媒体であるため、そこではこの言語や言葉・知識は使用されないし、出来ない。
だから、そこでは「見るものは見られるものである」であり、私は貴方であり、気づきが気づきに気づいている普遍的な
共通の意識状態
非分離的・非二元的な次元、
全てが私であり、私が全てである中の意識状態である、そこでは知識や言葉は通用できないし、していない。
そういうことであるので
ラマナ・マハリシの言うように、
または高次の方々や進化したエルダーブラザーの方々の言うように、
そこでは
「沈黙の言語」が語られる
全てが「見るものは見られるものである」の一体の中で行われる、
これこそが自由であり、全体と一つであるところの真の行為であると推測できる
そこは個であると同時に全であり、全であると同時に個である永遠のパーソナリティーと言われる観照者の次元である
のではないだろうか
『そこは思考を使わない「沈黙のテレパシー」・高次の全体としての意思疎通手段』で会話する次元であり、
気づきの次元であるのではないかと思う
そして
この沈黙の言葉を理解している状態の中で、聖者がたは波は海と分離していないと言われるのだ
波は海なしでは存在できない、海が在るので波はある、波は海とはひとつであると
スクリーンが在るので、映像が現れ、投影され、そしてそれを見る観察者、目撃者も出現できる、そして輪廻も発生している
苦しみ、悩み、葛藤し、恐怖に流され、一時の満足を求め群がるその自分をこそ、このスクリーンの私が成り立たせている。
このスクリーンという全体があるので個人という錯覚も上映されるのだと
過去幾転生し、神を求め、解脱を求め、さまよっているこの既知なる私は、今此処に未知なる私が在ればこそ存在
出来ているのだと
仮象は実相が在るので、存在できると
時間という虚像が、過去や現在や未来という映像が仮象存在できるのは、存在である今が在るからと言われているではないだ
ろうか
過去や未来やこの現在が在るのは、「今」があるからであると
憎しみや、悲しみや、苦しみや、不安や葛藤があるのは、今此処に愛が存在しているからだ
分離や二元という錯覚が存在できるのも、今此処に真の私である非分離・非二元・全体が在るからだと
既知なるものは未知なるものが今此処に在るから、非存在として仮象存在することが出来るのだ
闇は光が在るので存在できるのだ、そして光があることができるのは、今此処に無限の空間が存在しているからだ
無限の空間が在るのは絶対が在るからだと
根本無明という第1想念が仮象存在出来るのは真の実在である真我が存在しているからだ
現象界が仮象存在し、輪廻という錯覚が投影されているのも、実相という実在が今此処に在るからだと
この醜い自我(エゴ)が仮象存在できるのも、今此処に真我が在るからだ
この個人や私と言う人格が想像できるのも、スクリーンという真の私が今此処に生きているからだと
肉体が息をし、心臓が鼓動して、この有機体が生存しているのも、今此処に生命である真の私がいるからだと
この感覚や知覚という本来の知覚や感覚でない仮象感覚・知覚があるのも今此処に無限の感覚や、知覚が在るからだと
既知なるものは未知なるものが支えているのだと、未知なるものが此処に在るので既知なるものが有ることが出来ると
熟睡し、夢見し、目覚めて日常生活することができるのも、この非覚醒状態を支えている気づきという覚醒が在るから
こそだと、
気づきが今此処にあるからこそ、覚醒していないこのマインドの意識が仮象存在できるのだ
体験され得ないものが体験され得るものを支えている
経験されないものが経験というこのマインドの状態を支えていると
この見ることの出来る錯覚世界を支えているのは本当に存在している非分離性である真我である私である
この真我が一瞬でも存在しなかったら、一瞬たりとも宇宙もこの偽の私も、この対象としての虚像世界も存在しない
であろう
だから
覚者がたは
それぞれの表現方法でこの状態を教えられている
そもそも、この状態・次元とは言葉による表現方法がないのに無理して敢えて、言葉を使って述べられている。
敢えてそれを述べるとした場合は、どうしても否定的接近という方法しかないのではないか
だから
私たちもその言葉の違いに捕らわれたり、拘泥することなく
指し示しているあちら側というこちら側を
ハッキリと見ることにしよう
上江洲義秀先生はこの状態のことを
彼なりに表現してこのように言われる
全ては神である
内も外も神以外にない
完全完璧なる神以外に一体何があるというのであろうか
もし神以外に何かが有ると思ったり、見えたり感じたりしたら
その人は盲人(目が開いていない人)なのであると