鏡よ割れ!

磨かれ切った清澄なる鏡が割れたとき、そこに無限なる空、無が在るのだろう


磨かれ切った清澄なる鏡とは
全てを映し出す魂の主体
そこには自分のものではないあらゆるものが映し出される

マインドが

マインドの正体である恐怖が
そして、暴力、悲しみ苦しみ、憎しみ、葛藤
また愛憎、自分が愛しているという錯覚が

自分以外のあらゆる存在、霊的なそして魂的な、次元を超えた存在が
そして自分自身の中身・私の中身たるエゴ・自我・自己関心・自己感覚が
自分の反応、自分の見えない動機などが

それらは全て
私ではないものだ、人類共通のマインドが作り出した
想念であり、概念である

それを人類は共通して全員が
自分の中身だと、みんなが思っているだけだ

それを自分自身と錯覚して、人格と思っているだけで
それはマインドの正体であり中身なのだ、
頭脳の条件付けの結果なのだ。

各人が人格と称するものは
マインドが頭脳の条件付けの作用で作り出した記憶ではないか
実は私達は全員が同じように同じ内面で、記憶が違うだけなのだ、

しかもその記憶は
マインドによって作り出されたものに過ぎない、
人類は共通して同じなのではないか
別々と思っているだけではないか

そして、その中身は

私達の鏡である磨かれた清澄なる鏡という魂にそれらは映し出される

一点の曇り無く

そして、それらは
鏡の中をただ流れていく

だから、それらを
流れて行くままがさせること
それを留まらせてはならない

それらは
私ではない
来るもの拒まず、去るものを追わず
行雲流水である

しかし
この状態は「気づき」という非二元性ではない、非分離性、全体性ではない

これは
極度に研ぎ澄まされた受動的な二元性であり
魂なのだ

それはマインドが極度に静まった受動的状態であるけど

この状態は

気づきという、全体性、非分離性、非二元性ではない
マインドの究極状態なのだ、マインドが静まった状態であるのではないか

この清澄で、全くの汚れない磨かれた鏡は
粉々になる必要があるのではないだろうか

見るものも、見られるものも、写していたこの鏡が粉々に砕かれ散った後には

完全なる無限の空が、無が在るのではないだろうか

気づきという非分離性は、非二元性は、全体性、アートマン、真我は

その空であり

無であり

そこに、その状態ではないのではないか

見るものも見られるものもなく
そこにこそ
私達人類が手に届かなかった
思考ではない至高成るも

人類と私達によって
汚され切ったあの未知なるもの

名付けられないもの
それが
自他の区別無く
あるのではないか


私には
この状態を、
人類の間違ったそして汚し切った言葉では述べたくはない
クリシュナムルティーはこれを
アザーネスとか
人類がまだ使っていない言葉で表現した


それは
そこに最初から在ったのかも知れない
これこそ
主体を成立させている根源の絶対主体であり

私達に見ることも、聴くことも、思うことも、
想像することも、知ることも、知覚することも、
経験することも、体験することも出来ない

真の私であり、汝であり、それであり、全てであるもの、時間と空間を超越したもの
真我であると思う




戻る