魂の弁証法
これはクリシュナムルティー達によって言われていることであるが
私たちが真理に近づいていくプロセスには
「虚偽を虚偽と見る事→虚偽の中に真理を見ること→真理を真理と見ること」のステップがあると言われている
これはある意味で弁証法的な観点である。
これを詳しく見ると
@錯覚の中におぼれていること(その次元に埋没しているということ)
↓
A錯覚を錯覚と見ている事(その次元を観察していると言うことで、その次元から上昇し遠ざかっている)
↓
B錯覚を錯覚と見る事の中に真理を見ること(その次元を超越し、その次元を全体的に観察している)
↓
C真理を真理と見ること(観察者が完全に上位の次元に入っていると言うこと)
がそのプロセスの展開であろうかと思われるが
このプロセスを理解するには
具体的にはそれを覚知する、目(第三の)の開眼を伴うので解説することが難しい
(何故なら久保栄治は開眼していないので、それを正確に述べることが出来ないからである)
@錯覚の中におぼれていること
このステイトは私が肉体や霊体や、他の高級身体と同一視し、自分が個人だと錯覚している状態であり
且つ、自分が輪廻している主体だと思っており
何とか瞑想をして覚醒しなければ、と思っている段階である
この状態は久保栄治の状態であり、この【真の私ではない】久保栄治という肉体精神機構プログラムでの(現段階での)
進化状態を記述すると
・錯覚であるとの認識をするとは、単に思考によって虚偽を理解することではない。
虚偽を理解するためには、真の理解というものがどういう事かをより正しく、よりはっきりと知る必要が有る。
それは全体的な理解を要求される。それはただ単に頭脳の知的な理解だけでは、それは全く理解していないという
最悪の状態を招来してしまう
知る、理解する、解るとは、ことこのような覚醒に関する限りは、頭脳以外の知覚や直覚が働いていなくてはいけない、
肉体の浄化、感覚と思考が沈静していること、呼吸の整合、感覚の統合、感覚の開花などが同時に必要とされるの
である。
従ってただ単に、理論的に分かるや、哲学的に分かるや、知的に分かるとは、前述したように全く理解していないと言
うことになる。
真の分かるとは全体的な、肉体の五感のスローダウンや感情体や思考体、ワサナの浄化等を伴って始めて実現する
ことであることを、まず前提としてはじめに理解しなければならない。
・私は錯覚を錯覚と見る事の出来る「目」(第三の目)が開眼していないので、従って
・頭ではこの感覚は自分ではないと思っていても、プログラムの自分の知覚や感覚が自分が知覚し感覚していると感じ
てしまっている。
・自分というものを、自分は「肉体であると感じている個人」と同一視している。輪廻している私と錯覚している。
・なんと言っても目がないので(第三の目が開眼していないので)「自分ではないものである個人」や自我の動きが
ハッキリと見る事が出来ない。
・また同じように、目が開いていないので思考が絶えず邪魔して沈黙に留まることが出来ない。
・非思考、非対象である状態を、思考では把握できない状態に留まっている。
・上江洲義秀先生は熟睡中に真我に触れていると言われるのは、多分その真我に触れている状態が、マインドである
私たちにとっては、全くの無意識、無感覚であり熟睡中の無思考、無対象の愛の意識を捉えることが出来ないのだろう
A錯覚を錯覚と見る事
このステイトでは肉体(頭脳)や他の高級身体(頭脳)と同一視している私とは、私と名乗っているマインドであり、私ではなく、
私が輪廻していると思っている私とは、根源のプログラムがそう思っているに過ぎず、それは、そのプログラムが何かの私と
同一視の結果生じたものであり。そのプログラムが思っていることは私ではない。真の私とは思う事はしない。真の私とは
思考作用ではなく思考を超えた意識(非思考・非対象)であると教えられている。
本当の私とは、思考にとっては未知なるものである。
非対象・非思考であり、従って思考で認識できるものとは、全てが私ではない。
私とはただ在ること。何もすることもなく、何にも成ることもないものであるとの認識のステイトである。
(それは頭でそう思うことではなく、全体で理解することだ)
この状態を示す言葉は(勿論、私というプログラムはこの段階に至っていないが)
私は肉体ではありません
私は個人ではありません、運命やカルマを自分と同一視している私(プログラム)は私ではありません。
私は思考でありません、またそれに対する反応でもありませんし、それの主体でも対象ではありません。
私は転生している私ではありません、転生しているのはプログラムの私であり、私ではありません
私は感情ではありません。それは起こっているものです。
私は感覚や五感ではありません、感覚や知覚を自分の感覚や知覚と思っている私とは私ではありません。
私は経験ではありません、体験しているのは私ではありません。体験を知覚しているものは二元性の私であり
それは私ではない私です
私は人生で起こっている出来事と同一視している私ではありません。出来事はプログラムで起きていることです。
私は自我と同一視している私ではありません、自我とは頭脳の条件付けによりプログラムに対する反応であり記憶です、
私ではありません
私ではないもの、それは思考であり、概念です、プログラムです。それらは私ではありません、客体や主体を認識している私
や認識される私、そして対象を見る私や、対象である私は私でありません。
B錯覚を錯覚と見る事の中に真理を見ること
このステイトは私には全く分からないので叙述が難しく、かつ言葉や概念では示すことが不可能な領域だと思われる
言葉や思考や観念や知覚、体験や経験や記憶を超えた、非二元的領域であるとおもいます。意識の領域だと思います。
それを敢えて覚者達の言葉を借用して示すと
言葉や思考の完全に絶滅した沈黙の次元
真我に凝縮している状態
現象界を成立せしめている根源的な意識(気づき)の普遍的領域(普遍意識・ただ一つの意識)
個人や「私とあなた」などとの分離性が全くない「ただ一つなるもの」の状態
時間と空間という認識形式がなく、過去現在未来というものもなく、今此処である状態
静寂であり、完全な沈黙であり、思考の完全な停止であり、「気づき」という人類には全く未経験で、推測不能な愛の状態
生命、空間などと呼ばれ「一命一体・全体」などと呼ばれている非対象、非分離・非二元の意識状態。万物との一体感を
深く感じている状態、対象物との分離が解消して、その対象が私である一体感
この三界や更に上位にある現象界を成立せしめている根本の普遍意識・又は意識と呼ばれている実相そのもの
この状態を示す言葉は(勿論私は全くこの段階ではないし、まったく想像すら不能だが)
私は沈黙です
私は静寂です
私は全体であり、ただ一つなるものであり、全てです
私は存在です
私は意識です、時間と空間を超越した無限の意識です
私は非思考です、私は非対象です
私は全ての空間です、普遍です
私は生命そのものです、私は神です
私はあなたです
私はそれです
C真理を真理と見ること
現象という次元の成立を可能ならしめている実相という根本・根源、次元のさらにその奥の超越している未分の絶対状態
全く想像不能、推測不能な状態、絶対超越状態・未顕現の次元を超えた状態
しかしこの状態を記述不可能ながらも示している有名な言葉がある
それが「色即是空・空即是色」である。実相は現象であり、現象は実相であるということである。
此処からの流れは本源からの拡散と呼ばれ、帰還した状態、「身心脱落」から更に一歩進んで「脱落身心」であり
禅の十牛図によると真我という牛を連れて家に戻ってきた状態であろうかと思われるが
この状態は想像が全く不能であるけど
真我から全創造界へと拡散する状態
実相が現象であり、現象が実相である状態
あるがままがあるがままにある
絶対愛の顕現
絶対愛の浸透・普遍
キリストからの爆発
色即是空・空即是色
Bまでの流れはどちらかと言えば、(これを弁証法的に思考すれば)
●現象を実相だと錯覚すること
↓
●現象の中に実相を見る事
↓
●実相を実相と見る事(現象は現象であり実相は超越している)であり
これは実相である真我へ凝集する流れであったのが
↓
Cとはさらに絶対意識そのものである真我実現したキリストからの流れであり
●現象と実相は一つであり
●実相である真我からの拡散の流れであるように感じられる
●実相である絶対からの現象界への愛の放射(愛の救済)であるように思われる
何れにせよ、このプログラムである私にとっては非顕現などは、全くもって理解することは出来ない
至高の次元状態である。